メルボルン紀行①/グレートオーシャンロード

クリスマスといえば、
イルミネーションが街を彩り、
ヨーロッパはどこでも
クリスマスマーケットで賑わう。
広場の中央には、
巨大なクリスマスツリーが出現し、
イルミネーションで飾られた店が夜を彩る。
最近は日本でも
クリスマスマーケットが賑わっている。
東京に訪れたときも
日比谷公園では、
クリスマスマーケットが軒を並べ、
眼の前の帝国ホテルでは
恒例のクリスマスツリーが、
玄関前を華やかに彩っていた。
街を煌びやかに飾るイルミネーションは
心を灯す光。
艶やかに、華やかに、
冬の夜を彩る光の演舞です。

3回目のオーストラリアは
再会の旅――。
長女が中学生の時に
ホームステイでお世話した高校生がいて、
長女が交換留学生として
ホームステイでお世話になった家がある。
その家を訪ねて
メルボルンに旅立ちました。
今までとは違う旅、
出会いの旅でした。
このときは自由のきくツアーで、
3日間のフリータイムのうち
一日は彼女の家族とドライブし、
もう一日はメルボルン郊外にある
彼女の家を訪ねました。
長女が高校1年生のときでした。
日本は寒い冬。
木枯しの吹く成田を飛び立って
機上の人に。
タラップを降りた所はメルボルン。
日本とは真逆の季節の、
夏のメルボルンのはずでしたが、
飛行場に降りた途端、
風はヒューヒュー吹いて、
夏だというのに
ジャンバーを着ている人もいる。
メルボルンは寒かった!
暑いオーストラリアを期待したのに
少々当て外れ。
とは言うものの、
その数日前のクリスマスには
40度もあって
酷暑の夏を迎えていたらしい。
訪ねたのはクラクネル家、
ホテルのロビーで待ち合わせ。
先方はご夫妻と妹、
そして日本語の堪能な
彼女の友人の4人でした。
欧米流の挨拶では
親しい間ではキスしたり、
ハグをするのが礼儀ですが、
初対面の僕たちにそれはない。
けれど長女だけはいきなりハグされて
少々とまどっていた。
何はともあれ、
挨拶を交わして市内見物。
メルボルンはシドニーより
50年ほど歴史が浅い。
けれど街並みはイギリス風の風格があり、
古さと重厚さを感じます。
街中にはトラムが縦横に走り、
観光用の馬車がテクテクと歩いていました。

2日目。
グレート・オーシャン・ロードを走った。
ここは日本人には知名度は低い。
しかも観光ポイントは、
メルボルンから300kmあって
海岸沿いをひた走る。
そしてその目的地に彼女がいる。
自家用車2台に分乗して
往復600kmの小旅行に案内してくれた。
車はブルーバードにカローラ。
ほとんどポンコツ!
オーストラリアでは車は高く、
なかなか新車は買えない。
殆どは日本車で、
その当時、7割は日本車だと話していた。
オーストラリアの道路は走りやすい。
人口300万とは言っても、
日本に比べれば
交通渋滞はたいしたものではないし、
交通規則は日本と同じ。
制限速度も街中はともかく
殆どが80kmから100kmと緩い。
しかし交通違反の罰則金は、
日本よりもはるかに高く、
守れるルールを作って
違反すれば厳しくが、
この国のモットーだと話していた。
グレート・オーシャン・ロードの景観は、
日本の見慣れた景色とは別世界。
切り立った岸壁に
コバルトブルーの澄んだ海。
茶褐色の岸壁に刻まれた年輪に
46億年の地球の歴史の重みを
感じさせました。

グレート・オーシャン・ロード/十二使徒

彼女がいるポートキャンベルは、
海辺の小さな町。
その町の教会で
ビーチミッションをしていた。
日本でいう海の家で、
彼女との再会は3年振りとは言うものの、
それほど劇的ではなかった。
ハーイ!と言いながら
ニコニコして出迎えてくれた。
愛想のいい笑顔は以前と変わらない。
風の吹く海岸で
ファーストフードで買ったハンバーガーを
一緒に頬張った。
彼女はとても忙しいらしく、
会えたのは1時間ほどでした。

2018.3.19、

イタリア②/冷静と情熱の間(フィレンツェ~ヴェネチア)

Ⅱ.冷静と情熱のあいだ(フィレンツェ)
イタリアの文化遺産は、テレビCMにもよく登場します。例えば、かつては某社の清涼飲料水のCM――。列車からのぞむフィレンツェの風景の向こうに、サンタマリア大聖堂が見える。フィレンツェのシンボルとも言える半球状の屋根をもつあの建物は、数百年の時を刻んで、しっかりと街の風景に溶け込んでいます。あれを見ていると、映画「ダ・ヴィンチコード」を手始めとするダン・ブラウンの連作、そして「冷静と情熱のあいだ」のワンシーンが、サブリミナルのように蘇ってきます。そして原作を読んで、映画を観て、二人の作家のそれぞれ違うストーリーでしたが、「冷静と情熱のあいだ」の、
――10年後の私の誕生日に会いましょう!
と約束したのはサンタマリア大聖堂でした。確かにアレはラブストーリーがよく似合う風景で、主人公は絵画の修復師。それで思い出すのはウフィツィ美術館。世界的に有名な美術館で、ボッチチェリの「ビーナス誕生」や「春」が展示されていましたが、長い歳月で色褪せているように見えました。主人公は絵の修復師で、フィレンツェは美術絵画修復のメッカ?ではないのかと思いましたが、それに比較すると、スペインのプラド美術館の展示品は、極彩色そのままに、エル・グレコ、ゴヤ、ベラスケスなどのスペインを代表する画家の絵は、絵筆をとった当時のままという感じでした。

フィレンツェ/サンタマリア大聖堂

Ⅲ.旅情(べネチア)
Ⅲ.ヴェネチアの風景
アドリア海の女王「ヴェネチア」は、これぞイタリア!という風景ですが、地中海貿易の拠点となるイタリアは、その当時、多くの外敵に囲まれて貿易を営んでいました。だからこそ海に囲まれ、外敵から守ることのできる都市としてヴェネチアが繫栄しました。ヴェネチアは、アドリア海に浮かぶ都市として栄華をきわめ、文化・芸術の中心地として栄えました。
テレビで、今では古典ともいうべき「旅情」という映画が放映されたことがあります。その舞台が、ヴェネチアのサンマルコ広場や街の中を縦横に流れる運河でした。その中で恋に酔う二人がゴンドラに揺られながらゆったりと運河を渡る。僕自身もヴェネチアを訪れたとき、その風景を重ねつつ、夕暮れどきにゴンドラに揺られました。その傍らでは船乗りがカンツォーネを朗々と謳い上げ、それがうっとりするような美声で、旅情をそそる思い出のシーンとなりました。しかし小生の友人は、ヴェネチアを、臭い、汚い!といい、もう行きたくないと話すのです。夏のヴェネチアは海流が逆流して、流れ出す汚物が我慢ならないほどの臭いを放つと言います。これも人それぞれか。それに比べれば運が良かったし、そんな記憶もないままに、もう一度行きたいと思うのです。

ヴェネチア

もうひとつのイタリア、そして思い込みのイタリア。
それは「魔女の宅急便」――。
イタリアといえばなぜか、「魔女の宅急便」を思い出します。ユーミンの軽快な曲にのって箒に乗った「魔女キキ」が、空から舞い降りるあのシーンは、何処にも、ココはイタリア、とは書いていないのに、コレはイタリア!、きっとイタリア!と思い込んでいました。それほどに「魔女の宅急便」のあの風景は、イタリアのイメージそのものでした。実は、モデルになったのは、スックホルムともいわれ、ドヴロクニルともいわれて、諸説があるらしいのですが。憧れの風景。それほどイタリアは、ヨーロッパをイメージさせる風景で、記憶の中にしっかりと刻まれるシーンになっています。
それでは。
2018.2.22

魔女の宅急便

 

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イタリア①/ローマの休日

Ⅰ.ローマの休日

スペイン階段
トレヴィの泉

ヨーロッパに行って痛感するのは、日本の治安の良さ。日本では当り前のことも海外ではそうじゃない。イタリアは世界的な観光地。しかし、治安が良いとは言えない。
海外ではとかくトラブルに巻き込まれやすい。泥棒や、スリ、置き引き、ひったくりといった類がたくさんいる。とりわけ日本人は狙われやすい。小金持ちで安全が当たり前の日本人は、無防備で、鴨にするには格好の餌食となる。ガイドさんはその辺りをよくご存じで、折りを見ては注意を促し、その声にうんうんと頷くが、それでも被害に遭ってしまう。かくいう僕自身も日本では滅多にお目にかかれないような、ひったくりや泥棒の類は見てきた。運よく被害に遭わなかったが、これがイタリアの、これがローマの、と何度思ったことか。裏を返せば、日本は治安がすこぶるよい。日本では当たり前のことも海外では通用しない。

スリ。白昼堂々

◇ローマの小さな泥棒さん
ローマのとある観光地――。
なにげなく歩いていると、ジプシーらしい子供たちが寄って来る。新聞をかざしながら、どうやら新聞を買ってくれ、と言っているらしい。そんなものはいらないと手を振ると、その子の妹らしい小さな子がすり寄って来る。少年に気を取られていると、その隙に女の子がポッケットに手を入れてくる。とっさにその手を払いのけて、その場を離れたが、ガイドさんによれば、そうした子供はたくさんいるという。ローマにいるジプシーは貧しい。それで日銭を稼いで生活する泥棒さんが、たくさんいるというのです。

◇タクシードライバ
ローマでのエピソードをひとつ。
イタリアはどこを切り取っても、歴史的文化遺産で埋め尽くされ、息をのむような素晴らしい景色を見せてくれますが、イタリアの特筆すべきもうひとつの特色は、陽気なイタリア人。ローマのスペイン階段の前の通りは、ブランドショップが並び、ウィンドーショッピングを終えてホテルまでタクシーに乗る。行き先を告げると運転手は言葉が通じないのもかまわず、なにやら忙しく話しかけ、「コレ日本のアニメソングね」と言う風に、カセットをガンガン鳴らす。こちらは急いでいるわけでもないのに、アニメの曲に乗せて飛ばすわ飛ばすわ。ハンドルを右に切り、左に切り、車の間をすり抜けて、客が肝を冷やすのもお構いなしに、曲芸まがいの運転を披露する。そして、ホテルに着けば「どうだ、早かっただろう!」と言わんばかりに流し目を向けてくる。冷や冷やものの運転だったが、拍手喝采してチップを弾むと、運転手の頬はさらに緩む。まぁ事故ったわけじゃないし、イタリアのポンコツのファイアットに乗って、イタリアらしい体験をしたということか。

◇陽気なイタリア人
陽気なイタリア人はこんな一面もある。
いつだったか某ラジオ番組でイタリア人男性を語る場面があって、俳優の中村雅俊氏が、
――イタリアの男の人って、
可愛い娘を見ると必ず声をかけるんだよね。
それを不思議に思うと、
――どうして!あんなに可愛いいんだよ!
声をかけなきゃ損だよ!
とまぁこんな風であるそうな。確かに物怖じしない、駄目もとで突進する陽気な気質は、イタリア人特有の気質らしい。

◇ローマの駐車事情
ローマは歴史遺産の宝庫。
今も市内の地の底には至る所に遺跡が埋まっている。ひっくり返せばそこら中が遺跡だらけだという。だから、ローマでは住む人の安全を優先して、文化遺産の発掘には手が付けられない。そんなローマは石畳が多くて走りにくい。そして、イタリアの車は大半がボロ車。イタリアといえばフェラーリを思い出すが、それはセレヴ用。一般市民はフィアットという大衆車に乗っている。市内は道路の横に二列で縦列駐車。遺跡だらけのデメリットもあって、駐車場が少なくて仕方ないが、車と車の間は僅か数センチ。どうやって出るの?との問いに、ガイドさんが教えてくれた。前進とバックを繰り返して、車を出すための隙間をこじあけるんです。当然、車に傷もつくが、バンパーはそのためにあるんだ、とあっけらからんとしている。日本だったら訴訟になりかねないが、イタリアではこれが当たり前らしく、それを心配するなら車に乗るな、との理屈らしい。だからイタリアの車はみんなボロ車!!

映画「ローマの休日」

ローマの休日
さてローマのこと。
全ての道はローマに通ず、の格言を引くまでもなく、かつてのローマは、あらゆる権力が集中し、世界の文化の発祥の地だった。そしてその威厳は今もなお、その名残をとどめている。ローマといえば「ローマの休日」を思い出す。若きオード-リー・ヘッブパーンの、あの輝くような瞳が印象的で、世界中の人を虜にした。某国の王女・アンと新聞記者が、アイスクリームを食べたスペイン階段、手をかまれた?ライオンの像など。そこには今も大勢の観光客が押し寄せて、彼らに、ここがローマの休日の、あのシーン、と思い出させてくれます。(続く)

西オーストラリア(ピナクルズ)

翌日は、パースから北へ250kmほどの、ピナクルズという奇岩の切り立つ景勝地に向かう。ピナクルズは、荒れた大地に奇岩が無数に突き出して、別称「荒野の墓標」とも呼ばれている。広大な砂地。太古の昔は原生林で、その原生林が風化して、堆積した石灰岩の層だけが取り残され、こうした奇岩を作りあげたという。それは、数千万年、数億年という、気が遠くなるような歳月をかけて作られ、地球創世期の歴史を語る風景になっています。

奇岩が並ぶ ピナクルズ
ウォンバッド

その日のツアーはいすずの大型四駆。11人ほど乗ったが、ピナクルズに辿り着くまでが大騒動。同乗したのは当時の第一勧銀の親子連れと、多分、中国系シンガポール人だと思うが、やたらに騒々しい女の子の4人連れで車の中では大声ではしゃいでいた。紳士然とした銀行マンは迷惑そうに、注意しようか、と話していたが、穏便にとやり過ごした。親もなかなかの紳士なら、息子も賢そうな男前。そして、母親は小さな娘を見ながら
――女の子がほしかったね、
と話していた。大型四駆はその後、故障してコアラのいる公園で足止め。そこでウォンバットを抱き上げましたが、思ったよりも大きくて、どっしりとして、けれど凄くおとなしかった。

さらに、ピナクルズからインド洋に向けてひた走る。低木が果てしなく広がる荒地を走り抜け、やがて視界の向こうに海が広がり、ところどころに純白の砂浜が見える。海岸を降りると、その背後には純白の砂浜。珊瑚や貝のかけらでできたものらしい。自然の脅威ともいえる美しい風景で、雪よりもさらに白い砂が砂浜に敷き詰められていた。やがてインド洋に沈む夕陽が、大きく、美しく輝いて、カップ片手に、しばしのティータイムを愉しみました。

有袋動物 クォッカ

翌日は銀行員ご推奨のロッドネスト島へ。パースに隣接する小さな島で舟で渡った。贅沢は敵とロッドネスト島は自前で渡ることにして、ツアー料金の半分で済んだ。到着後は自転車を借りて島内を一周。ごく小さな島で周囲10kmほど。サイクリングしながら綺麗な風景を見て爽快な気分に浸りました。オーストラリアといえば有袋動物の宝庫。途中にはねずみよりひとまわり大きい有袋動物がいて、そんな動物が道路の横で人懐っこい顔を見せていました。

ロッドネスト島

さらに、忘れ難い風景にエアーズロックがある。日本から南下してパースに到着した後、大陸の中心に向かい、「世界の中心で愛を叫ぶ」の伝説的な舞台となったエアーズロックを目指した。オーストラリアの先住民族アボリジニの聖地で、太陽が西に身を沈めるとき世界で一番大きな一枚岩・エアーズロックは、夕日に染められて真っ赤に輝いている。それは神々しく、そして美しい。その神秘的な色に魅せられてアボリジニはエアーズロックに神を見たのでしょう。
やがてこの広大無辺の赤い大地は、夕闇に包まれ、漆黒の闇の中に満天の星空があらわれます。私たちはスターライト・ツアーに参加して、暗い闇に向かってひた走り、広漠としたブッシュの中で車を止める。そして車を降りたときの衝撃、身震いするような感動に満ちていました。360度に広がる満天の星空。そのときのことは次回に。

アボリジニの聖地 ウルル

2018.2.10

西オーストラリア(パース)

二度目は翌年のGW――。
前年末のオーストラリアは初めての海外から10年後で、見るもの聞くもの全てが新鮮で、刺激的。その感動は忘れ難く、もう一度オーストラリアへ!との気持ちが強まり、西海岸のパースへと向かった。
オーストラリアは政治経済の中心地・シドニーを中心にした東海岸と、西海岸の拠点となるパースがある。だから、未踏の地であるパースが候補になった。パースは砂漠の中のオアシスのように美しい佇まいを見せ、かつては著名な旅行評論家がパースを称して、「世界でいちばん美しい都市」と語った。そこから東に目を移せば、世界の臍と呼ばれ、映画「世界の中心で愛を叫ぶ」で一世を風靡したアボリジニの聖地・ウルルがある。いわゆるエアーズロックのことで、その後、東海岸のシドニーからブルーマウンテンへ周るツアーを中堅どころの旅行会社に依頼した。ところが、直前に届いた予定表ではエアーズロック近辺の滞在が延びて、シドニー泊が短縮。旅程表が勝手に変更になっていた。これでは予定したブルーマウンテンには行けないと怒り心頭で旅行会社に抗議し、それに躊躇したのか、電話で謝罪してきたものの計画変更はなし。その代わりにさまざまなオプションが用意されていた。
まずは、パースに到着して白いベンツのリムジン車がお出迎え。オーストラリア西海岸に1台しかないリムジン車とのことで、ホテルに着けば部屋にはフルーツバスケット。翌々日はお詫びにと、ピナクルズへのツアーに家族4人を無料ご招待。パースから北へ250km、いすずの大型四駆に乗って丸一日の小旅行。ピナクルズを観光後、純白の砂浜が点在する海岸に到着し、インド洋に沈む太陽を背にしてティータイム。夜は星の瞬く海岸を走り、無事にホテルへ到着した。それだけではなく、シドニーではホテルのグレードアップ。大理石風呂のある豪華なインテリアのコネクティングルームに案内されて、相当の付加価値が付いた。しかし、数年後にはその旅行会社は倒産。あんなことしてるからだよ、と思った。

さて旅の話に戻します。
一日目はパース――。
パースは西海岸最大の都市で人口百数十万人ほど。特別大きな都市ではないが、西海岸最大のビジネスタウン。そんなことから、もっと気忙しい都会を想像していたが、さにあらず。人はゆったりとして、車ものんびりしている。あるときパースの街の中で道に迷って地図を広げていると、二人連れのビジネスマンが声をかけてきて、目的地を地図で示し、わかりにくいからと現地まで案内してくれた。パースは観光客も多く、そうしたことに慣れていたのかもしれないが、フレンドリーなオーストラリア人の一面を見たような気がした。

パース

パースの魅力は、なんといっても街並みの美しさにある。西洋風の重々しい歴史を感じることもなく、どこまでも屈託がなく、開放的で、燦々と降り注ぐ太陽がよく似合う。街の中心にはスワン川が流れ、家並みは特別豪華ではないが、こざっぱりとして美しい。街の中央にはキングスパークという広大な公園があって、6月になるとワイルドフラワーが一斉に咲きほこる。街並みと水と緑の調和。それが魅力と言えます。

パースの街並み

(次回に続く)
2018.2.8

オーストラリア(ゴールドコースト)

オーストラリア紀行は4回。
それぞれに思い出があり、感慨深いものがある。とりわけ最初のオーストラリアは、今もなお記憶の中にしっかりと刻みこまれている。最初にオーストラリアに行ったのは20年以上も前のこと、そのときの衝撃が新鮮で、だから封印されていた海外が一挙に解放された。二度目は4ヶ月後のGW。子供たちは連休とはいえ、飛び石で登校日がある。しかし、学校の連絡帳に、これも社会勉強なので、と手前勝手な理由をつけて成田を発った。
初日のブリスベンを後にしてバンに乗って次の目的地、ゴールドコーストへ。ゴールドコーストは海に面したオーストラリアを代表するリゾート地。12月。しかし季節の反転するオーストラリアは夏真っ盛り。そのときの衝撃は忘れられない。我々は北国の日本から来た訪問者。ブリスベンではさほど気にならなかったが、そのときは長ズボンに長袖シャツ。ところが周りを見れば、水着一枚に、ターバンのような腰布を巻いて若い女性が町の中を闊歩している。恥ずかしい!その人がじゃなく、僕らが。どう見ても僕らはどこの馬の骨ともしれない異星人で、周りの人から見れば不思議なものを見たように思えたかもしれない。居心地が悪い。そんなわけで、ホテルに着くと早速、現地人とのギャップを埋めるべく姿に衣替えした。
その日のホテルはカジノを併設したホテル。正面ゲートにはロビーの吹き抜けを突き抜けるような巨大なクリスマスツリーが飾られていた。かくして、オーストラリアの一日目を迎える。真夏のゴールドコースト。目の前は白砂の浜が続くロングビーチ。海を見渡せばサーフィンに興じる人たちがいる。南洋諸島を思わせる風景。それが新鮮で、刺激的で、南海のパラダイスだった。

ゴールドコースト滞在中に忘れられない出来事があった。アイルトン・セナの事故死。1994年5月1日。テレビでセナの死を伝えるニュースが流れた。セナは言わずと知れたFIの偉大なレーサー。ブラジルの英雄であり、マクラーレンホンダを率いる勇者で、日本でも超人気者だった。勿論、僕自身もその当時はF1レースにかじりつき、彼の疾走に快哉を送っていた。そのセナが死んだ。事故にはよからぬ前兆があった。

サンマリノGP。予選一日目に盟友がクラッシュし、予選二日目にはレーサーが事故死。F1での死亡事故は実に12年ぶりのことで、セナは精神的に不安定になり、電話で恋人に「走りたくない」と話したという。気を取り直してポールポジションから決勝をスタートしたものの、走行中にコースアウトしてコンクリート壁に激突。脳死状態から4時間後に不帰の人になった。
彼の死とともに僕自身もF1への興味が薄れた。

アイルトン・セナ(Wikipedia掲載)

ともあれ、そんなこんなでその後はケアンズからシドニーへ。思い出いっぱいの旅、1回目のオーストラリアの旅でした。

2018.2.6

旅日記/旅のはじまり

旅のはじまり

旅の始まりの高揚感――、
とりわけ、ジェット機が滑り出すように舞い上がる瞬間がいい。滑走路の起点を目指して静かに飛行場を旋回し、そしてキ~ンという金属音を響かせながら大空へ舞い上がる。そのときの浮遊感、Gを感じて飛び立つときの緊迫感。そうした最初のワクワク感が今も忘れられない。

初めての海外はパリ経由でスイスへ。飛行機に乗るのも初めてで、未体験ゾーンを一挙に突破して、ふわふわ浮いたまま旅が始まりました。スイスは未知の旅。小さい頃から憧れの地で、雪を戴いた美しい山が幾重も重なり、アルプスホルンとヨーデルがひびく国。その日が迫るにつれて旅への誘惑は弥が上にも高まりました。と言っても、その当時はインドのカラチ経由で、ギリシャのアテネでは、航空会社のストの影響で空港ロビーで7時間待たされるというハプニングもありました。そんなこんなで、日本をたって目的地のパリに着いたのは36時間後。本当に長い長い旅でした。

癒しの風景 ベランダの花が美しい
ユングフラウ

それから暫くは海外旅行もお預け。幼い子供を抱えて海外に行くのは大変、費用もかかるとあって、その後は専ら国内でした。北海道、九州などを車で転々として飛行機に乗ることも慣れました。その後、思い立って海外に行ったのはオーストラリア。10年後のこと。円高で海外が身近になって海外旅行の夢が膨らむ。正月休みを前に急に海外へ行くことを思い立ちました。でも、冬は寒い国より暖かいところへ。南洋諸島かハワイかと考えているうちに、季節の反転するオーストラリアが候補にあがりました。

青い海/グリーン島
ケアンズ/キュランダ鉄道

久しぶりの海外で旅費も少し弾みました。二人の子供は小学5年生と2年生。海外といえば、ツアーガイドが旗を持って、その後をぞろぞろと歩く姿が印象的ですが、行ってみて驚く。ツアー客は我々だけ。しかも、現地の案内人が行く先々で待っている。出発は12月28日。最初の経由地はブリスベン。タラップを降りて出口ゲートに行くと、我々の名前の看板を手にした外人女性がいた。エッ!英語で喋べらなきゃならないの、どんな風に?と一瞬ひるんだが、とにかく歩み寄る。しかし、外人女性の口から飛び出したのは日本語。不思議な違和感。外国人なのに日本語がやたらうまい。日本に1年ほどいて日本から帰ったばかりだという。しきりに、日本にまた行きたいと話していました。そのとき空港で迎えの車を待つ間、彼女が言うには、
――見かけませんでした? あの誰って言いましたっけ、背の高い女の人と男の人。
そのときはわからずじまいでしたが、その後、日本でテレビを見ていて、それが明石家さんまと和田アキコであることが判明した。彼らは申し合わせて同じ飛行機に乗ったわけではなく、たまたま前後の席に乗り合わせたらしい。そんなことを番組で面白おかしく話していました。
オーストラリアは最も標準的なルートを辿りました。ブリスベンの動物園で子供たちはコアラを抱き、カンガルーを見る。コアラは夜行性動物。大人しいように見えても、ときどき爪を逆立てることもあるので注意してと言われました。
ブリスベンで市内見物して、バンに乗ってゴールドコーストヘ。そのとき初めて携帯電話なるものを見ました。20年以上前のことです。やたらデッカい携帯電話で、彼女はそれを耳にしてなにやら連絡をしていました。
季節の反転する南半球のリゾート地・ゴールドコーストで南国気分を堪能して、ケアンズからシドニーへ。シドニーでは、シドニーブリッジやオペラハウスなどを見物して、その後は自由行動。その時のオーストラリア旅行はフリータイムが大半で、だから愉しかった。歩きながら、電車に乗りながら、舟に乗りながら、水族館や観光地をめぐり、ショッピングをして愉しみました。

オペラハウス

夢から醒めて見た夢は、夢から夢の旅立ち。オーストラリアから帰って、もう一度行きたいとの思いは募り、4ヶ月後のGWには再び機上の人に。それでも同じコースでは余りにも芸がなさすぎる、と一般コースの東周りを外してオーストラリアの西海岸へ。パースからエアーズロックへ旅立ちました。

さて旅の智恵を――。
オーストラリアはビールが安い。と言うより日本が高すぎる。360cc缶で100円ほど。種類は4種類ほどしかないが、とにかく安い。日本の発泡酒ほどの値段と思えばいい。それよりもワインがお勧め。リーズナブルで、おいしいワインがたくさんある。ワイナリーを訪ねてもよい。ガイドさんに勧められて空港内の免税店で土産用に2ℓの箱詰め赤ワインを買った。値段は1000円ほどなのに、これが旨い!!
オーストラリアで是非利用したいのが「BYO」。これは、Bring your own の略でレストランに「BYO」の表示があれば、酒屋から買ったワインなどを持ち込んで呑んでも割増料金は不要。なかなか便利で利用しました。もっともお酒を飲む人だけに通用する話ですけどね・・・。
それでは。
2018.2.1