悠久のモロッコからポルトガルへ


◆2月8日
/カサブランカ~ラバト

~メクネス

モロッコは、
ヨーロッパとイスラム文化が混交として
地中海の明るい陽射しが似合う
ひらけたところです。
旅は始まったばかり。
これからモロッコを巡り、
ジブラルタル海峡をフェリーでわたって
ポルトガルに向かいます。


◆2月9日
/フェズ

世界遺産の都市・フェズを訪ねました。
と言っても知らないと思いますが、
迷路のような旧市街。
二本のメインストリートの他は、
すれ違うのもやっとの細い路地が
網の目のように張り巡らされ、
日用品雑貨、食料、衣料、土産物などの店が、
何百、何千と犇めきあっています。
車が出入りできる路地はなく、
道は少しずつ折れ曲がり、
細い路地が交錯して、
自分がどこにいるのかさえわからない。
まさしく迷宮都市、不思議の世界。
未知との遭遇です。



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モロッコは、
同じ北アフリカでも
エジプトとは印象が全く違います。
エジプトは圧倒的な古代エジプト文明の賜物。
その奥の深さは
凄いとしか言いようがありませんが、
その一方でそこで暮らす人の生活は貧しい。
カイロは巨大都市。
けれど鉄骨が剥き出しのままの建物が
あちこちにあり、
道路の側壁は壊れたまま、
街には至るところに
ゴミが放置されています。

エジプトの問題は貧富の差にあるらしい。
聞くところによると成人の識字率は30%。
教育のレベルが国の屋台骨を
脆弱なものにしていると言います。
それに比べると
モロッコ成人の識字率は70%を超えている。
国を支えるのは教育なんでしょうね。
エジプトを案内したガイドさんは、
カイロ大学を卒業し、
その知見の深さは驚かされてばかりでした。
その彼が国の行く末を憂い、
この国をなんとかしなくちゃと話し、
将来は子供たちの教育に尽くしたいと、
熱く語っていたのを思い出しました。


◆2月10日
/シャウエン

フェズからシャウエンへ。
シャウエンは、
モロッコの北にある青い街。
シャウエンが注目されるようになったのは
10年ほど前のこと。
このいかにもフォトジェニックな風景は、
スペインを追われたユダヤ人が、
ユダヤ教のイメージカラーである青に、
街を染上げたのが始まりとされています。
青い街・シャウエン。
旧市街の街の中に一歩足を踏み込むと
不思議な異次元の空間に
迷い込んだような錯覚を覚えます。


◆2月11日
/ジブラルタル

ジブラルタル海峡を経て
イギリス領ジブラルタルへ。
アフリカからヨーロッパ大陸までは14km。
地中海と大西洋を隔てる分水嶺でもある。
海の向こうは北アフリカ・モロッコです。


◆2月12日
/エヴォラ

新型コロナウィルスは、
世界中の人を疑心暗鬼にしている。
リスボンに向かう途中休憩で
バスツアーの先客がいた。
フロントガラスには中国語のツアー名。
--えっ中国人??台湾人?・・
先方も訝しげに見る目が気になったのだろう、
男の人が近寄って来て
--Japanese?訊き、
そうだと言うと、笑いながら
--台湾!と言った。
僕らも台湾人だから安心しろ、
というわけだろう。
今の時期、中国人には、
あまり近寄って欲しくないよな、
というのが本音でしょう。

その後は、エヴォラ、そしてポルトガルの首都リスボンへ。


◆2月13日
/ロカ岬~リスボン

ここに地果て、
海始まる--
ポルトガルの著名な詩人の一節。
ユーラシア大陸最西端、
ロカ岬--。
大航海時代以前は、
ここが陸の終わりで、
地球の果てと考えられていました。
そんな風に考えると
海の向こうに
境界のない
涯てしなく広がる無限境地の世界が
見えてくる。
切り立った崖に
寄せては返し、
巌も砕く激しい波。
永久無限の大地の果て。

ポルトガルには、
マゼラン、ヴァスコダ・ガマ、
フランシスコ・ザビエルといった
時代を切り開いた先人たちがいました。
リスボン--。
ここにはそうした、
大航海時代と呼ばれる、
ポルトガル繁栄を偲ばせる
数多くの遺跡があります。


◆2月14日
/オビドス

さらにポルトガルを北上し、
魅惑の小都市オビドスから
大学の街コインブラ、
そしてポルトガル第三の都市ポルトへ。
旅をしながら
歴史のある国はどこを切り取っても
絵になる風景がある、
と感じます。

オビドスは、
谷間の真珠とも呼ばれ、
人口わずか800人ほどの、
城壁に囲まれた中世の村。
あたかも絵本から抜け出したような
エキゾチックで美しい村ですが、
ひっそりとしたこの村も、
観光シーズンともなれば
世界中から大勢の観光客が
押し寄せるという。


◆コインブラ

コインブラ。
世界で最も古い大学、
コインブラ大学がある。
コインブラにはなんといっても
世界でいちばん美しい図書館とも言われる、
コインブラ大学図書館がある。
創設は1724年。
吹き抜けのある重厚な図書館は、
いかにも象牙の塔を彷彿させる
知的でアカデミックな雰囲気に
包まれていました。
ディズニーの映画「美女と野獣」の
ロケ地としても名を馳せ、
一見の価値ありですが、
残念なことに撮影禁止でした。

コロナウィルスは、
世界中でトップニュースになっています。
ポルトガル滞在中も
ワールドニュースのトップで
CORONAVIRUS OUTBREAK
と表示して、
横浜のダイアモンドプリンセス号の映像が流れ
大々的に取り上げられていました。
これを見てさぞかしトランプ大統領、
だから中国は駄目なんだ、
と怒り心頭でしょうね。
中国の武漢を震源地として
世界中に広まる新型コロナウィルス。
こうした問題は初期対応が大事です。
しかし中国は隠蔽体質で
都合の悪いことはひた隠し、
対応の遅れが事態を悪化させた、
といえなくもない。
日本のニュースを検索すると
日本も非常事態らしい。
銀座では店員もマスク着用が義務付けられ、
道行く人も多くの人が
マスクを付けているとか。
一体この問題、どうなるのでしょう。


◆2月15日/
ポルト

歴史遺産の都市・ポルト。
ポルトガル発祥の地とされ、
旧市街を中心に見所が多い。
とりわけドン・ルイス1世橋から見下ろす
旧市街を望む景観は本当に美しいし、
写真の中ほどにある店は、
世界でいちばん美しい本屋といわれ、
ハリー・ポッターの作者・J.K.ローリングは
この店に通い、
インスピレーションを得た、
とも言われています。

この日ツアーの合間に本屋を訪れると、
長い長い行列が。
本を買うのに行列?
と思いながら、
入口で入場料5ユーロを徴収。
螺旋階段が美しく、
書架には興を誘う美しい本が並んで、
確かに世界一かも・・と。
それにしても店内は溢れんばかりの人で、
お店というよりも観光地。
ツアーの仲間とも、
本の売り上げより入場料だね。
入場料はコストなしの純利益だから、
と話していました。

【完】

ドイツ紀行④/ハイデルベルク

◆6月11日(日)
◇ハイデルベルク
ドイツへの夢――
それは、
ドイツの黒い森であり、
ノイシュヴァンシュタイン城であり、
そしてハイデルべルクだった。
ドイツにはいくつもの代表的な都市があるが
なぜか僕自身の脳裏には、
この都市の名が浮んだ。

ハイデルベルク。
ハイデルベルクは、
ドイツ最古の大学が
ある都市として有名で、
学生の街――。
人口は14万人ほどで、
住民の5分の1は学生といわれる。
最初にこの都市のことを知ったのは、
アルト・ハイデルベルクという舞台だった。
僕が中学生の頃、
兄と一緒に帝劇で上演されていた舞台を
観に行ったことがある。
遊学していた王子と
酒場の娘との悲恋物語で、
酒場で酒を酌み交わす場面があり、
今もその場面が瞼の裏に浮かんでくる。
ドイツといえば、
ウィンナソーセージと白ワインとビール。
その中でもビールと
ドイツの印象は切り離せない。
酒場では、昼となく、夜となく、
大ジョッキでビールが汲みかわされ、
その豪快さがドイツらしい。
酒の解禁は16歳。
水よりもビールの方が安いとされ、
水代わりにビールを飲む国としても有名だ。
ビールと言えば、
チェコやベルギーも有名ですが、
筆頭格はなんといってもドイツだろう。
ビールの消費量は世界一。
だからというわけではないが、
ドイツ人女性は、
若い頃はスリムでスタイルもよく、
綺麗な人が多いのに、
中年を過ぎる頃は
ビヤ樽のように逞しくなってしまう。
絶対にビールのせいだと思う。
男も同様で、
ビールっ腹で街を闊歩し、
ドイツ人にはダイエットなんて
関係ないのだろう。
だからドイツ人がいる風景には
ビヤホールがよく似合う。
今回のドイツ旅行でも
ビヤホール体験という
オプションが欲しかったが、
それはなかった。
そんなわけで、
ドイツの旅では毎食後、
ワインよりもビールに舌鼓を打った。
2.5~4.5ユーロほどだったろうか。

ハイデルベルク城

市内観光/ネッカー川沿い

城を市内から見上げる

ドイツ三大名城の
最後を飾るハイデルベルク城。
翌朝8時にホテルを出発し、
真っ先に城へ向かう。
その日は日曜日。
アメリカのクルーズ船が
一緒になると大変なことになる、
と現地ガイドさんが叫んでいた。
だからガイドさんは、
―急ぎましょうね、

と言いながら、
小走りに城内を手際よく案内していたが、
馴れているとはいえ、
ハイデルベルクの全てを、
広く、あまねく、深く知っている。
それに感心してしまう。
ハイデルベルク城は、
さほど期待していなかったが、
思いがけず名城だった。
崩れかけた城壁が風格を備え、
歴史を感じさせた。
とりわけ城の頂上から見おろす
ハイデルベルクの街が素晴らしかった。
赤い屋根の家並みが広がり、
街の中心にネッカー川が横切る。
大学の街であり、歴史の街。
ドイツの大学は、
いわゆる偏差値で、
評価を測ることができないという。
一流会社に就職するためとの、
日本的な価値基準ではなく、
なにがしたいかとの、
純粋な学術的関心や価値尺度で選ぶ。
だから大学を選ぶというより、
目指す仕事に適した専門学部を選ぶ、
というのが重要になるらしい。
ハイデルベルク大学は、
大学としてのレベルも高いが、
さまざまな専門分野を備えた学部があり、
ドイツ国内の評価も高い。

その後はフランクフルトに向かい、
帰路を辿る。
旅の終わり――。
ヨーロッパ紀行としては、
6日間と短かったが、
期待以上の旅ができた。
ドイツは中世の都市や古城巡りもいいが、
その途上の、
アウトバーンから見える風景が、

思いのほか美しかった。
ドイツは田園風景が美しい。
バスの車窓からは、
美しい森が果てしなく続き、
森の間を縫ってなだらかな田園がうねる。
その大半は、大麦や、小麦、
じゃがいも畑だったが、
それが芝生を敷き詰めたように
緑の野辺が果てしなく広がっていた。
それがドイツ的というのか、
当たり前のはずの風景が、
日本にはない美しさで、
それが魅力的だった。
ドイツの田園風景は、
なぜこんなに美しいのか。
見るともなしに見ていると、
電柱がなく、ガードレールがない、
田園を切り裂く道路もない。
美しい田園風景を遮る障害物が
なにも見当たらない。
緑の野辺が、
なだらかに、
のびやかに広がり、
道路が殆ど見当たらない。
どこまでも続くアウトバーンに、
自然のままの風景がある。
ドイツの作曲家、
ベートーベンの曲に
「田園」という交響曲があるが、
この風景なしに、
あの名曲の誕生はありえないように思えた。

フランクフルト

ドイツの田園風景/車窓から

2018.12.28

ドイツ紀行③/ノイシュバンシュタイン城

◇ドイツ 3つの名城

◆6月10日(土)

ノイシュヴァンシュタイン城――
この城を知ったのは、
高校生のときでした。
当時、朝日新聞では、
高校生の懸賞作文を募集し、
最優秀作品として
女子高生の作文が掲載されました。
それがノイシュヴァンシュタイン城
の旅。
彼女はこの城の
生い立ちにまつわる伝説を知り、
この城への憧れと夢を膨らませて旅立ち、
出逢いと感動の瞬間を迎えました。
それが高校生らしい
瑞々しい感性で綴られて
それが胸に迫りました。
このときから、
ノイシュヴァンシュタイン城は
僕自身の憧れにもなったように思います。

ノイシュヴァンシュタイン城、
白亜の殿堂――。
シンデレラ城のモデルともされ、
その名のごとく
白鳥が舞うような優美な姿を見せる。
それがまたこの城の伝説が、
より神秘的に謎めいて語られる事になった。
ノイシュヴァンシュタイン城の創建は、
ルートヴィッヒ2世の手によるもの。
彼は1845年に生まれ、
先代王が早逝して、
19歳で第4代バイエルン国王の座に就いた。
しかし彼は若すぎた。
彼の眼は国政に向けられることはなく、
彼の生涯はひたすら、
彼自身の夢を追い、
夢の実現のために費やされた。
彼は幼年時代を
ホーエンシュバンガウ城で過ごしたが、
日々城の正面にある岩山を見ながら、
あの場所に城を造りたい、
と願い続けた。
それがノイシュヴァンシュタイン城だった。
彼は中世の騎士道に心酔し、
ワーグナーの歌劇に感動して、
彼のパトロンとなって支援したが、
彼の歌劇の世界を実現するため、
その心象風景を
ノイシュヴァンシュタイン城に重ね合せた。
築城は即位4年後の1868年に始まり、
17年の歳月を費したが、
城は遂に完成することなく、
ルートヴィッヒは死去。
在任中に彼がこの城に住んだのは
172日とされる。

城の完成は彼の夢、
果てることのない夢の実現。
それは彼の描く中世騎士道の世界観であり、
ワーグナーの劇中にある世界を
自らの城に落とし込むことだった。
そのためにヴェルサイユ宮殿などの
名城や宮殿を訪ね歩き、
それを模倣して理想の城を目指した。
しかしその当時は、
二つの城の築城も手掛け、
膨大な資金が必要となり、
王室費だけでは足りずに多額の借金を重ね、
次第に財政を圧迫するようになった。
その一方で彼は政治には疎い。
心の拠り所だった
ワーグナーが亡くなった後は、
次第に孤独を好むようになり、
政治的にも孤立して
臣下からも見放されるようになった。
そのため形ばかりの精神鑑定が行われ、
彼は精神病と診断されて
王の座を追われることになった。
絶望と孤独――。
ほどなくして彼は幽閉の地で、
水死体として発見され、
謎の死を遂げたが、
失意の末の自殺と考えられている。
40歳だった。
そうした伝説がありながらも、
ノイシュヴァンシュタイン城は今もなお、
神々しいまでに優美な姿を見せ、
世界に冠たる名城として、
その名をとどめている。

ノイシュバンシュタイン城(NETから転載、正面から空撮)

◇ホーエンツォレルン城
ノイシュヴァンシュタイン城や、
ハイデルベルク城とともに、
ドイツ3大名城のひとつとされている。
ドイツ帝国の皇帝、
ホーエンツォレルン家の発祥の地とされ、
11世紀に築城され、
幾度となく破壊されては再建されてきたが、
その後ノイシュバンシュタイン城の
築城と同時期の1867年に
今の姿に再建されて、
今もなお子孫が住んでいる。
855mの美しい円錐形の山の頂上に建てられ、
霧のある日は雲の上に
ぽっかりと浮かんでいるように見えて
「天空の城」とも呼ばれている。
城内を見学したが、
美しく荘厳な城だった。
城内にはカソリックとプロテスタントの
ふたつの礼拝堂があり、
美しいステンドグラスに飾られていました。

ホーエンツォレルン城 NETから転載

2018.12.26

 

ドイツ紀行②/中世の美しい都市

◆6月9日(金)。
◇シュヴェービッシュ・ハル。
中世の美しい小都市。
ロマンチック街道に沿って、
中世の美しい都市が点在しているが、
その中でもとりわけローテンブルクは有名。
その一方で、
シュヴェービッシュ・ハルや
ディンケルスビュールは
日本での知名度は低い。
今回のツアー会社も
この街を取り上げたのは初めて、
ということで
美しいながら、
観光化されて着崩れした感じがなく、
素朴で、中世そのままの
美しい街並みが残されていた。
ローテンブルクに優るとも劣らない
魅力的な都市。
これからの有望株で
中世の美しい景観が保持されている。
ドイツ特有の家に木組みの家があるが
これらの街にも残されていて、
機能美を備えて優美な姿をとどめている。
そんな魅力的な街でした。
一言、添えておくと、
シュヴェービッシュ・ハルは、
観光ガイドブックにも載っていないような都市で、
それがこんなにも美しい。

シュヴェービッシュ・ハル

◇ディンケルスビュール
この街も美しい。
他の城塞都市と同じように
城壁に囲まれた都市で、
自警団を組み、
住民の手で街を守り抜いてきた。
ローテンブルクから
シュヴェービッシュ・ハルまで76km。
そこからディンケルスビュールまで76km。
三角形の点を線で結んで、
さらにその先にネルトリンゲンがある。
これらの都市は、
とりたてて観光スポットと呼べるものはなく
ひたすら街並みが美しく、
癒しを感じる。
だからこそ魅力的。
ゆったりと巡り、
その魅力を感じながら歩くのがいいのだろう。

ディンケルスビューㇽ

 

◇ネルトリンゲン
直径1kmほどの円形の町。
この街は、1500万年前に
直径1000mほどの隕石が
落下した跡にできた、
直径25kmほどの盆地の中の小さな町。
今もなお隕石の跡が
くっきりと残っているという。

ネルトリンゲン

◇ヴィ―ス巡礼教会/世界遺産    →
草原の中にひっそりと佇む教会。
それがヴィ―ス教会。
外観はとりたてて壮麗というほどではなく
この教会が、
年間100万人訪れる教会とは思えない。
しかしひとたび
この教会の中に足を踏み入れると、
その美しさに圧倒される。
白を基調とした、
華麗にして優美な教会で、
淡く美しい色彩に彩られて、
天使が舞うような世界が拡がる。
しかしこの教会の起源には、
はかなく哀しい物語がある。
祭壇の正面に飾られたキリストの像。
地元の農民が持っていたというこの像が、
突然涙を流して奇跡を起こしたという。
このキリスト像を
ひと目見ようとする人のために
小さな礼拝堂が建てられ、
訪れる人の中に病気が治った、
との奇跡が語り継がれて、
ヨーロッパ各地から
巡礼者が続々と押し寄せ、
さらに立派な教会を建てることになったという。
設計や天井画は、
当時の名匠の手によるもので
18世紀半ばに完成した。
世界遺産の教会――。
しかしこの教会の中は、
残念ながら写真撮影は禁止で、
その映像は記憶にとどめるのみ。
添付した写真はNETから転載したものです。

ヴィ―スの巡礼教会

2018.12.24

ドイツ紀行①/ローテンブルク

3つの名城と美しい街を巡る
ドイツロマンチック街道

旅の案内には、
こうした金科玉条の
美しい文言が並べられて
旅心を誘う。
6日間という
短いツアーでしたが、
1週間丸々は休めないよ、
との連れの声に見合っていた。
実はドイツは、
新婚旅行の候補地で、
スイスにするかドイツにするか、
との選択肢の狭間で、
私は絶対にスイス!
との声に押し切られてしまった。
そんなこともあって、
頭の片隅にはいつも
ドイツの風景が浮かんでは消えていたが、
あろうことか連れは、
8年ほど前に娘とともに
ドイツのクリスマーケットに行ってしまった。
そんなわけで小生は、
ドイツに行くことをためらい、
二の足を踏んだ。
行きたいけど勿体ないか・・。
そんなとき、
このツアーが目に飛び込んだ。
6日間と短期間で、
コース内容もそれほど被らないし、
なによりも安い。
某ツアー会社の企画で、
二度目ならこの内容で納得か、
と参加することにした。

6月7日(水)、成田発。
仕事を終えて車を走らせて2時間、
22時20分発のフライトに間に合わせた。
ドイツ到着後は、
フランクフルトを起点に、
ロマンチック街道を走り、
中世の小都市を巡りながら南下して、
ノイシュバンシュタイン城を訪ねた。
その後、別ルートを北上し、
古城街道を巡りながら
フランクフルトに戻る
というコースを辿った。

旅の原価計算は、
航空券とホテル、
それに料理で成り立っている。
今回のツアーは、
ホテルも料理も、
この料金ならこのグレードだろう、
と思わせる内容だったが、
その中でもなるほど、
と納得させることがあった。
往路も復路もカタール航空。
カタール航空は、
成長著しい中東系航空会社の
中でも急成長。
最近、半官半民から
国営企業として再出発し、
国が国策として後押ししている。
787やA380などの新機材を導入し、
機内装備はAグレード。
機内サービスも、
食事もまずまずで、
業界のトップクラスを目指している。
航空会社の評価も
5つ星ではあるが、
中東を経由するため南回り。
旅程表が届いた途端、
ビックリしてしまった。
ドーハでの4時間の
トランジットを挟んで
フランクフルトまで22時間。
直行便なら12時間ほど。
そりゃないだろうと思いましたが、
それを裏付ける理由を目にした。
中継地となるドーハでは
同じツアー会社のグループに
いくつも出くわし、
スイスや中欧、
フランスなどに散って行った。
ドーハ経由のカタール航空は、
このツアー会社がほぼ独占状態。
会社同士で提携を結んで、
ツアー料金も低く抑えているのだろう。

◇中世の小都市
◆6月8日(木)
そんなわけで
フランクフルトを経由し、
ローテンブルクに着く頃は、
陽が傾きかける6時を回っていた。
その後は観光。
弾丸ツアーじゃあるまいし、
時間との勝負になって、
添乗員さんの顔にも焦りの色が見える。
ホテルも城壁内ではなく、
城門から徒歩15分ほどの
家族経営の小さなホテル。
添乗員さんの案内で足早に城内を観光し、
隙間時間を利用して買い物をして、
その後は夕食。
駆け足の観光で、
もっとゆっくり見たかったのに、
との不満が残った。
ドイツ紀行の先行きに、
ほんの少し暗い影を落とした。

しかしその後は、
旅は思いのほか順調に進んだ。
添乗員さんは、
30歳手前の若い女性で、
テキパキとこなし、
案内もこなれて笑顔をふりまき、
一生懸命、旅の案内人を務めていた。
ツアー参加は27人で、
定員のほぼ上限。
添乗員さんのノートには、
びっしりとガイドの内容が書き込まれ、
自前のイラストも目にした。
旅の途中で
この添乗員さんと話したが、
就職した後に添乗員になろうと決心し、
資格をとったという。
添乗員になって7年。
根っから仕事が好きなのだろう、
頑張れば、
それがお客さんの声になって
返ってきますから、
と話していた。
そうなのだろう。
それは舞台の魅力にも似て、
客の前で演じることで、
お客さんの顔や反応が見える。
最初はみなさんおとなしくてどうなるかな、
と思っていましたが、
みんなの笑顔が見えるようになって
それが嬉しかったと話す。
好きな仕事をして、
その反応や成果が見える。
仕事をする人間として、
それに勝る幸せはないだろう。

◆ローテンブルク
中世の小都市。
ロマンチック街道で
ノイシュバンシュタイン城とともに
高い人気を誇る。
ローテンブルクは13世紀以降、
商業が栄えてきたが、
17世紀の30年戦争で痛手を負い、
衰退して忘れ去られていった。
しかし古い街並みが
画家の手で描かれたことをきっかけに
広く世界に知られるようになったが、
第二次大戦で街の4割を焼失。
それでも住人の努力で
中世の美しい街並みを取り戻した。

ドイツを思い浮かべるとき、
いつもこの街が浮かんだ。
小さいけれど
キラリと光る中世の美しい都市。
そんな姿を思い浮かべていた。
しかし残念なことに
街を十分に見るほどの時間がなく、
ローテンブルクの魅力を知り尽くすには
時間が足りなかった。
城壁に囲まれた中世の都市。
見学したマルクト広場や市庁舎、
ローテンブルクの定番である
プレーンラインだけでなく、
城壁の上を歩き、
市庁舎の展望台から街を見下ろせば、
ローテンブルクに来たな、
との実感が沸いて、
この街をより身近に、
魅力的な町として感じたことだろう。

ローテンブルク

2018.12.21

ポーランド③/旅の名残

ポーランドの物価と食事
ポーランドは物価が安い。
ホテルもヨーロッパの他の国々に較べると
安いと言われ、
割安な旅が期待できる。
とりわけ印象的だったのは
食事の前の飲み物。
例によってビールやワインなどを戴いたが、
ビールはレギュラーで250円ほど。
大ジョキほどあるビールでも
350円くらいか。
ワインも実にリーズナブルで
大抵の店は350円ほど。
珈琲の類も値段の差がほとんどない。
ほぼ毎食のことでもあり、
得した気分だった。
ポーランドはスープがおいしい。
ほぼ毎食スープが膳に並び、
味も色々。
クノールはポーランド産。
スーパーに行けば
さまざまなスープが所狭しと並んでいて、
スープのオンパレード。
それが安い。
ゆっくり買い物ができなかったので、
物価の安さを実感する余裕は
ありませんでしたが、
ほかもそうなのだろう。

旅仲間の紹介
このツアーの参加者は様々で多彩。
行く前は年配の方が多いのでは、
と思っていましたが、
参加者20名のうち、
ご夫婦は3組で、
母と娘が2組、
祖母と孫娘や伯母と甥。
ご婦人の友人同士。
一人旅の男の人と、
女の人が2人と老婦人。

この旅では旅の達人ともいうべき
二人の人に出逢いました。
一人旅の男の人と女の人で
僕らの旅のスタイルとは全く違う。
一人は奥さんを亡くされ、
公務員を早期退職し、
色々な所を旅している。
行先はヨーロッパなど
メジャーな観光地ではなく、
トルコやヨルダンなどの中東や、
エジプト、アルジェ、モロッコ、
といった北アフリカなどの国々。
次はアイスランドに行くと話し、
行く先々に発見があり、
それが面白いという。

もうひとりは長崎在住の女性。
とても愉快な人で
旅の話を聞かせてくれた。
この人もチベットや中東などの、
秘境の地ともいえる国々を旅している。
来月はラオスに行くと言い、
最近ではイランがよかったという。
けれど、イラン!?と思った。
テロと関与する国で、
安全に対するリスクもある。
普通の人なら
足を踏み入れることはないだろう。
でもそうじゃないんだという。
人が面白い。
いい人ばかりで、
子供の笑顔がとても明るい。
風景もエキゾチック。
行かなければわからないこと、
実際にその地に足を運んで
自ら体験しなければ実感できないこと。
それが旅にあって、
旅の醍醐味でもある。
彼女はそれを実践している。
彼女には旅のバイブルがある。
例えば次の旅先であるラオス。
この国に関して「ラオスを知るための60章」
という本があり、
このシリーズ本が
行く先々の殆ど全ての国を網羅し、
その国の政治・経済・歴史・文化に至るまで
一通り読めば大抵のことがわかるという。
それだけでなく、
その国を代表する小説を読み、
あらゆる情報を仕入れ、
それを1冊の冊子にまとめる。
彼女にとって、
旅は単なる物見遊山に非ず、
ということだろう。
観光旅行をして、
上っ面な旅の情報を得て、
知ったつもりになるのではなく、
その国を知り、
その国の何某かを実感してゆく。
我々旅の凡人には知りえない
別の世界があるのかもしれない。
学ぶことは多い。
来年、長崎に行きますから、
行ったら会ってくれますかと話したら、
おいでよおいでよ、
と歓迎してくれた。
新たな出逢いがあるかもしれない。
2018.12.10

クラクフ

最終日。ワルシャワ

ポーランド②/美しき残像

1日目
クダンスク。
旧市街が美しい。
市内散策途上のオリーヴァ教会には
世界で一番美しい音色と
されるオルガンがあり、
バッハの「トッカータとフーガ」など演奏されて
これが圧巻だった。
五臓六腑に響く音色は美しく
心に染みわたりました。
かつてはレコードのバッハに聴き惚れて、
いつかは本物を聴きたい,
と思っていましたが、
念願を叶えることができました。

その後マルボルク城へ。
到着したのは渋滞に巻き込まれて
夕闇が迫る4時半。
それでも赤い城は、
夕焼けに染まって美しい。
城を取り囲む城壁はいかにも堅牢で、
広さはゴシック建築の城として最大だという。
全てが赤いレンガ造りで、
12世紀にこの辺りを支配した
ドイツ騎士団の拠点といわれている。

2日目
世界遺産の都市・トルン。
トルン観光後、
ポーランドの旧首都・ポズナンへ。
いずれも中世都市の面影を色濃く残す
美しい都市ですが、
気忙しく移動して、
ゆっくり見ることはできなかった。

トルン

3日目
ヴロツワフ。
旧市街を散策。
美しい中世の都市で、
クリスマーケットの準備中。
ここで眼を引いたのは、
街の至る所にいる小さな小人の像。
共産主義から民主主義に移行した頃、
共産主義社会を風刺して作られた、
と言われていますが、
今は専ら観光用。
眼を凝らせば、
あちらにも、こちらにも。
およそ200体あるそうで、
そのひとつひとつの表情が面白い。

ヴロツワフ

 

高さ15cmほどの 小人の像が街の至る所に

4日目
アウシュビッツ収容所。
収容所の施設やガス室など、
いくつもの展示物を見て、
見るほどに暗鬱な気持ちになる。
これがホロコーストの現実。
ここに多くのユダヤ人が送り込まれ、
そして死んだ。
130万人の虐殺。
アウシュビッツを舞台にした映画の中で、
大勢のユダヤ人が
貨車の中に詰め込まれ、
収容所の入口で降りてゆくシーンがあり、
あれがこの場所で、
これからなにが待ち受けているのか、
不安な面持ちで
銃を構える兵士の前を歩く姿を思い出した。
見学した日はとても寒い日で、
冷たい雨が降って冷気が肌を刺した。

午後はヴィエリチカ岩塩坑へ。
中を案内してくれたのは、
日本語の堪能なポーランド人。
ヴィエリチカは巨大な岩塩坑で、
坑の長さは全長300km。
13世紀に堀りはじめられ、
最近まで700年にわたり堀り続けられた。
見学途中には、
岩塩坑の歴史や伝説を物語る
塩の像があり、
広大な礼拝堂もある。
町ひとつがすっぽり収まる広さといわれ、
ごく一部が開放されている。
世界遺産。

アウシュビッツ収容所入口

ヴィエリチカ岩塩坑

5日目
クラクフ。
ポーランドの京都といわれる古都。
石畳と赤いレンガ塀が美しい。
市内散策では運河沿いの道を辿り、
旧市街に至る道は趣があり美しい。
広場はクリスマスマーケットの真っ最中。
中央には大きなクリスマスツリーが聳え、
イルミネーションで飾られた店が
広場を埋め尽くして、
夜の街を賑やかに彩っていました。
豪華な飾り付けの
二頭仕立ての白馬の馬車が広場を闊歩し、
人の群れはホットワインを手にして広場を歩き、
にこやかに談笑しながら
クリスマスを迎える夜を愉しんでいました。
ヨーロッパではごくありふれた風景だろう。
けれどこうした情景にも
ヨーロッパの匂いを感じる。
この日、当初の予定にはなかった
ダ・ヴィンチの「白テンを抱く貴婦人」を
鑑賞することができた。
世界遺産の街。

6日目
ワルシャワ。
前日、クラクフから国内線でワルシャワへ。
この日は雪が舞い、
本当に寒い日。
底冷えして零下7度といわれ、
歩いていても
観光もそこそこに
美しい町並みを堪能するような
余裕はありませんでした。

観光終了後、
昼食レスランの「ホノラトカ」へ。
ショパンがよく来た店として知られ、
入口の壁に
ショパンの似顔絵が描かれていました。
ショパンはピアノの詩人。
高校時代よく愛聴していた。
ワルツやバラード、
ノクターン、スケルッツオなど、
珠玉の名曲が散りばめられ、
とりわけルービンシュタインの弾く
ショパンが大好きだった。
ワルシャワをもっとゆっくり見たかった。
ワルシャワは世界遺産の都市。
戦禍の街から見事な復興を遂げ、
ひびわれのひとつにもこだわって、
戦前の姿に蘇らせた都市。
それはポーランド人の気概であり、
誇りであり、
歴史を大切にするヨーロッパ人の気質を
物語る姿でもあるのだろう。

ワルシャワを訪れた日は
どんよりとした雲に覆われ、
冷たい雪が舞って、
景色は霞んで見えました。
その向こうには
色とりどりの屋根や壁の建物が覗いて
それが美しい。
いつか再びこの地を訪れることができたなら
・・と思う。
ポーランドの町並みは
どこを見ても美しい。
その一方で、
バスの中から見るポーランドは
果てしなく畑が広がり、
のんびりとしているように見えました。

2018.12.7.

ポーランド①/序章

ポーランドの印象は薄い。
あえて言えば、
ショパンとアウシュビッツくらいだろうか。
東ヨーロッパの旧共産主義国で、
16世紀に最盛期を迎えたが、
その後、分裂と統合を繰り返し、
18世紀には、
国そのものが消滅したこともある。

第二次大戦の火蓋が
切って落とされた地でもあり、

ドイツに支配されて以来、
完膚なきまでに戦火に塗れて
国は壊滅状態。
そんな暗い影を落とした国で、
僕自身の旅行先の候補に
一度もあがったことはない。
ある意味で、
魅力に乏しい国として映っていた。

そんな国に行こうと思ったのは、
ふとしたことがきっかけだった。
南フランスで一緒になった人から
一通のメールが届いて、
――ポーランドに直通便ができたので
行って来ました。
  思ったより素晴らしい国でした、
とあった。 

ポーランド――。
右の耳から
ショパンの美しい旋律が響き、

左の耳から
アウシュビッツの悲痛な声が聞こえる。

ヨーロッパの中にあっては、
歴史の表舞台に立つことの少なかった国。
しかしポーランドの人たちは、
粘り強く、逞しい。
かつて名匠・ポランスキー監督が手掛けた
「戦場のピアニスト」という
第二次大戦時を舞台にした映画があり、
その中でユダヤ人ピアニストが、
奇跡的にアウシュビッツの収容所行を逃れ、
追われ追われて
荒廃したワルシャワの街に佇む。

そのときドイツ人将校に見つかり、
自分がピアニストであることを
証明するためにピアノを弾く。

それがショパンの
バラード第1番でした。
荒廃した戦火の地にひびく美しい旋律。
それが余りにも
対照的な情景でした。
ショパンとアウシュビッツーー
ポーランドを象徴するふたつが、
美しいものと醜いものとして対局にあり、
それが不思議な調和と
余韻を醸しだす。

それがポーランドという国でした。
アウシュビッツ――。
負の世界遺産。
人類が決して忘れてはならない
歴史の1頁であり、

だからこそポーランドに行ったら
見ておかなければならない。
ユダヤ人が信仰するユダヤ教は、
キリスト教が覇権を握るヨーロッパでは
異端的存在で、

差別と迫害の歴史を背負い、
ユダヤ人排斥に
喝采を送った人も少なくない。

そうした中で唯一、
ポーランドだけはユダヤ人に寛容で、
多くのユダヤ人が移り住んだが、
迫害の歴史の行き着く先として
130万人の人が
ポーランドのアウシュビッツ収容所に

送り込まれることになった。
9割はユダヤ人だった。
アウシュビッツの悲劇。
それを物語る映画は多い。
「戦場のピアニスト」然り、
そして「シンドラーのリスト」や
「ライフ・イズ・ビューティフル」など
限りがない。

ともあれポーランドの旅へ。
旅仲間からポーランドを賞賛する声があり、
NETで検索したが、
確かに美しい。
ポーランドの都市は
ワルシャワくらいしか知らないが、
世界遺産が14ほどあり、
美しい文化遺産に恵まれている。
だからツアーを申し込んだが、
手配ミスや催行中止があり、
二転三転して12月8日(木)、
ポ-ランド航空成田発ワルシャワ便で離陸した。

ポーランドは日本の8割ほどの面積。
ワルシャワはその中ほどで、
そこから北のクダンスクに飛び、
南のクフクスまでバスで辿った後、
ワルシャワへ国内線で飛ぶ。
8日間の旅。
しかし北から南まで見所が点在し、
かなりの距離を移動することになった。
ときは12月。
寒いときに寒い所へ行くのは遠慮したいは、
口癖だったが、
ポーランドの12月の平均気温は、
最高気温3度で、
最低気温-2度。
行くと決めたからには防寒を万全に!
と準備したが、
旅行の前半は比較的過ごしやすかったものの
後半の数日は
極寒のポーランドを経験することになった。

2018.12.5

1日目/

ケアンズへ②/グリーン島

3日目。
グリーン島。
ケアンズは、
グレイトバリアリーフの玄関口。
目の前には、
サンゴ礁の海が広がり、

世界中からこの美しい海を見ようと、
大勢の観光客が訪れる。
そうした珊瑚礁の手近な拠点として
この日のグリーン島がある。
ケアンズの桟橋から
高速船で50分ほど。
やがて珊瑚礁の島、
グリーン島が見える。
お目当ては、
真っ青な美しい海に
体を浮かべて疲れを癒し、
珊瑚礁を泳ぐ魚たちと戯れること。

グリーン島でのオプショナルツアーには
往復の船旅だけでなく、
シュノーケリング体験と、
グラスボトムボートの
二者択一で選択できる
コースがセットされている。
男3人と娘はシュノーケリングを選び、
ほかはグラスボトムボートを選んだ。
とはいえシュノーケリングは、
器具の貸し出しだけで
特別な指導はない。

今回は排水弁のない基本タイプ。
泳ぐことができれば難しくない。
水中眼鏡と足ヒレを着けて
魚になったつもりで泳ぐ。
それだけのこと。
沖に行けば、
海の中には珊瑚礁があり、

魚が泳いでいる姿を見ることができる。
とはいっても、
魚の泳ぐ姿はあるが、
岸から近いせいか
魚影は薄く、
魚の数が少ない。
20年前に訪れたケアンズでは、
海に停泊する浮島で
シュノーケリング体験をした。
透明度の高い海に潜って水中散歩。
本格的なスキンダイビングではないが、
海の中には、
トロピカルフィッシュがたくさんいて、
魚の群れを間近に見ることができた。
もうひとつのコース、
グラスボトムボートは、
船底がガラスでできた船に乗って
船の上から海の中を見る。
大きな亀が泳いでいたよね、
魚もたくさんいたよね、
と子供たちと話していたから、
海底探検を愉しむことができたのだろう。

グリーン島は珊瑚礁の島。
グラスボトムボート組を含めて、
まずはひと泳ぎ。
美しい海の前には、
珊瑚のかけらでできた
真っ白なビーチが広がっている。
島を覆う熱帯雨林で
小鳥が囀り、

さざ波がささやく。

砂浜で体を休めていると、
どこからともなく鳥が歩いてくる。
見渡すと、
ここにも、そこにも、向こうにも。
しかも人懐っこいというか、
物怖じしない。
人のいる傍に寄ってきて、
あろうことか足を突っつき、
食べ物があれば食い漁る。
手で追い払うようにすると、
飛ぶのではなく走りだす。
観察すると、
どうやらこの鳥は飛べないらしい。
後でNETで調べてみると、
クイナと呼ばれる鳥の一種だという。
近くの看板には、
動物に餌をやってはいけませんとあり、
加えて餌をやると法律で罰せられます、
とある。
動物は自然とともに生きてこそ、
その環境の中で生きることができる。
人間はそうした自然の掟に
逆らってはいけない、
との戒めの警句でした。

その日はグリーン島で、
泳いで、シュノーケリングをして、
グラスボトムボートに乗って、
食事をして、
帰路を辿る桟橋に向かった。
すると背後から「アッ超やばい!」、
と叫ぶ声がする。
振り向くと日本人の若い女性。
桟橋の上から身を乗り出して
海を見ている。
そこには亀が泳いでいたが、
それが叫ぶほどのことか・・と思う。
それも「超」のつく形容詞で、
やばい、とはなんだろう。
亀が泳いでいると、超やばい??
日本語はどんどん乱れている。

その日はホテルに帰って、
プールで泳ぎ、
ヨットハーバーを前にした
シーフードレストランで食事。
ホテルから徒歩10分ほどの
オープンエアのレストラン。
ケアンズで評判の店らしい。
オイスターを戴き、蟹を食し、
たくさんのシーフードを並べて、
美味しく戴きました。

3日間を通じて天気に恵まれた。
お陰で日焼けに苦しみましたが、
それはそれとして素敵な旅行でした。
旅には+αの付加価値を加えたい。
いつもそう思う。
ケアンズは亜熱帯性気候。
ここは一年を通じて気温が高く、
この時期は乾季。
素晴らしい天候のもとで
景色にも恵まれ、
家族揃って旅行ができた。
これはなによりの財産で
最高の思い出。
それを胸に刻みながら、
感謝されながら、
感謝して、
幸せを感じることができました。

グリーン島の桟橋

シーフードレストラン

2018.11.23

ケアンズへ①/キュランダ

初の海外はスイスで、
その後はもっぱら国内旅行。
海外に行くほどの暇はないし、
金もなし。
ところが円高が進んで、
海外が身近になり、
どこか遠いところへ!
と思い立ったとき、
訪れたのはオーストラリアでした。
とはいえ、
積極的にオーストラリアかといえば、
そうじゃない。
年末のハワイは高いし、
冬なのに寒い所に行く気もしない。
そんなわけで、
季節が反転する南半球の、
オーストラリアが、
消去法として残ったに過ぎない。
ところが、
このオーストラリアにはまった。
季節が反転する風景が、
旅慣れない日本人にとって
刺激的だったのかも知れない。
記憶に残る、
海外の風景の筆頭に
今もなおオーストラリアがある。
だからこの時の海外も
オーストラリアの、
ケアンズだったかもしれない。
それは旅を企画した
子供たちも同じだったと思う。

記憶の中のオーストラリア。
そんなこんなのケアンズ体験。
その再現を、
というわけでもないが、
ケアンズを目指して、
機内泊を含めて4泊5日の旅に出た。
長女家族3人に、
長男家族4人を加えての9人の旅。
予算を切り詰めて、
LCCのジェットツアーを利用し、
ホテルはNETで予約。
旅の手配は、
長女に全てお任せで、
オプショナルの手配までしてくれた。

9月21日、
成田第3ターミナル
20:40発。
飛行時間7時間半。
海外便では初のLCCで、
第3ターミナルまでやたら遠いし、
ターミナルの造りも
第2、第3に較べると貧弱に見える。
機内食は有料、
飲み物、毛布、機内のビデオに至るまで
全て有料。
それを承知の上での低料金だから
文句を言う筋合いではない。

ケインズ第一日目。
日本との時差は1時間で
殆ど時差はないが夜間飛行。
しっかり寝ないと翌日の体調にひびく。
けれど小さな子供たちは、
長距離夜間飛行に興奮していたらしく
殆ど眠れなかった。
目指すホテルは、
プルマン・ケアンズ・インターナショナルで
5ツ星のホテル。
飛行機はちょっと我慢でも、
ホテルは優雅に。
それが今回の旅のスタンスで
快適な旅ができた。
ホテルの計らいで早めにチェックインし、
寝不足で疲れた体を休めて、
その後はショッピングに繰り出した。

2日目、キュランダヘ。
ケアンズの観光は、
この日のキュランダと
グリーン島が定番。
往路はスカイレールで、
復路はキュランダ鉄道を利用。
スカイレールは全長7kmで、
これを乗り繋いで目的地を目ざし、
中継地点でジャングルを散策する。

キュランダ――。
オーストラリアの原住民、
アボリジニの村。
20年前にも訪れ、
当時も大勢の観光客がいたが、
どことなくひっそりして、
素朴なマーケットが並んで、
アボリジニの匂いがしていた。
しかし20年を経て訪れると、
村はすっかり整備されて
観光化が進んでいる。
その分、アボリジニらしい、
素朴な印象は薄れていたように思う。

その後は、カンガルーやワニ、
コアラなどがいる動物園である、
コアラ&ワイルドライフパークへ。
そこで子供たちはカンガルーに餌をやり、
アボリジニの音楽や踊りを見て、
ブーメランなどを体験した。

帰路はキュランダ鉄道。
鉄道の起源は19世紀末。
当時、キュランダは、
ゴールドラッシュにわいて
大勢の人が金鉱を目指したが、
途上の道は雨季になれば道を閉ざされ、
険しく切り立った山やジャングルに阻まれて
交通の難所になっていた。
そこで鉄道を敷くことになったが、
工事は困難をきわめたという。
鉄道が敷かれて100年余。
木製の車両は少しこぶり。
どことなくレトロでノスタルジック。
世界遺産の熱帯雨林のジャングルを
ゆらりゆらりと走り、
滝を見物するために途中下車。
1時間45分の鉄道の旅。
単なる移動手段ではない、
不思議な安らぎがありました。

2018.11.21

プルマン・ケアンズ

スカイレール。
ジャングル散策。

キュランダ

コアラ&ワイルドライフパーク

ジャングル体験

アボリジニの踊り
キュランダ鉄道