小京都/津和野・倉敷

心に残る日本の風景。
日本には小京都と呼ばれる心和む風景がある。
そうした町に津和野や、萩、倉敷、金沢、飛騨高山、中仙道の妻籠、馬篭、奈良井宿などがあります。
その魅力は叙情豊かな美しさと、
失われつつある日本の風景でありながら、
日本人が求めてやまない心の故郷を
感じることができるからでしょう。

それを人がどんな風に感じるか。
それは人それぞれ、
個人の感性によって違いますが、
多くの人が共感する最大公約数的な
日本の原風景があるように思います。
僕自身はそうした風景が好きで、
学生時代からそんな町を求めて
歩いていました。

◆津和野
山陰の古都・津和野。
山あいの盆地にひっそりと佇む城下町。
今では小京都の代表のように呼ばれ、
全国から観光客が引きも切らず押し寄せる。
町を歩けば白漆喰と
なまこ壁の土塀や屋敷が並んで、
その白い塀に寄り添うように掘割があり、
その掘割には鯉が悠々と泳いでいる。

津和野

掘割のある風景。
中国地方で目にする風景ですが、
なぜこの辺りにこうした風景が多いのか
不思議に思っていました。
津和野の鯉は、
武士の非常食に供せられるためだったと言います。
その当時の武家社会では
飢饉や戦時に備えるのが世の常。
そのときの非常用の食として
鯉がいたというのです。
けれど今ではそんなことはどこ吹く風。
鯉は丸々と太り、
観光用として優美な姿を見せています。
津和野には三度ほど訪れました。
最初は冬ざれた寒い季節に。
関東よりも遥か南にあるとはいえ、
裏日本にあって、
冬になれば雪が降り、
しんしんと夜はふけて雪が降り積もる。
そして白壁に沿って菖蒲の花が咲く季節が二度目。
多分、その季節がいちばん美しいでしょう。
そして夏。
暑い夏の城下町の余韻が懐かしい。
蝉が鳴いて夏の陽射しが眩しい季節。
津和野には四季折々に美しい風景があります。

◆倉敷
倉敷はこれまで何度か訪れましたが、
8年程前の2月、
姫路城ツアーがあるというので参加しました。
往路は広島までの飛行機と、
復路は神戸からの飛行機を利用する、
いわゆる弾丸ツアーで
倉敷到着は夕方5時。
どっぷりと夜の闇が覆い、
倉敷は闇夜の散策になってしまいました。
その前は結婚直後でした。
古い町並みから少し外れた和風旅館に泊まる。
庭に面した部屋で、
苔むした庭に木が植栽され、
日本庭園らしい風情があって
それが心を癒してくれました。
その後は5月の連休に車で家族を連れて、
山陽・山陰を周りながら倉敷を訪ねました。
倉敷は、倉敷川を中心に
白壁と蔵のある美しい街。
蔵屋敷のある風景は江戸情緒が漂います。
美観地区と呼ばれる一帯があり、
そこが観光の人気スポットです。
その一角に倉敷アイビースクエアと呼ばれる
旧倉敷紡績の工場を転用したホテルがある。
赤茶けたレンガの壁に緑の蔦が這い、
明治の遺跡として女性客に人気でした。
L字型に曲がった町並みは
古い蔵屋敷を利用した資料館などが並んで、
そうした中に大原美術館や大原邸がありました。
大原邸の主は
大原倉敷で財を成した地方の財閥ですが、
大原邸の屋根瓦は実に見事です。
一枚一枚が微妙な色合いに焼かれて、
不思議な調和を保って、
観る人の目を引き付けます。
古い町並みはそこはかとない叙情を
醸し出しています。
中国地方にはこうした風景が多い。
倉吉も白壁の土蔵の街。
運河に面していくつもの土蔵が並び、
その重厚な佇まいは
かつての繁栄を偲ばせます。
倉敷も商都。
江戸時代に天領として栄え、
今では美観地区と呼ばれる旧市街に運河が縦断し、
その両側に白壁の
風格のある美しい土蔵や建物が並びます。
川のある風景ーー。
それが掘割であれ運河であれ、
水のある風景は人の心を癒してくれます。

倉敷↑ ↓

2018.4.23

四月の雪

思いがけない4月の雪――
8年前の4月17日のこと。いやはやという週末でした。そのときの週末は、長女の提案で、長男の会社の保養所のある山中湖に行くことになっていた。しかし長女は仕事の都合で、土曜の夜、現地に向かうことになった。ともあれ、土曜の朝、車で自宅を出発して長男を拾いながら山中湖に向かう。天気予報は雨。嫌な天気だなと思いつつ高速道路を走っていると、雨はやがて霙に変わり、激しさを増してゆく。道路にも霙が積もり減速して走っていると、橋の上ではトラックがスリップして進行方向を逆転して橋の欄干に突っ込んでいた。注意しなくちゃ、と思う間もなく高速道路は封鎖。一般道路を走ったが、その影響もあって道路は渋滞。当初の予定より1時間以上遅れて目的地に着いた。その頃には霙もあがって、その後は快調なドライブウェイ。第三京浜から江ノ島に向かい、西湘バイパスを走る。しかし、山道に入ると霙が降りはじめ、やがて雪に変わる。除雪した跡が残る道路に雪が積もっていた。
――4月に雪はないだろう!
とブツブツ愚痴も飛び出したが、スタッドレスタイヤやチェーンの用意もない。やっとの思いで2時過ぎに山中湖畔に到着し、湖畔のほうとう料理店でゆっくりと食事。その後、保養所へ向かったが、雪が積もって勾配のキツイ坂もある。長女を迎えに行くのに大丈夫かなと心配しながら保養所に着いた。
部屋は旅館並みで温泉もあり、まずまずだなと思っているとトラブルが発生。温泉風呂に入るとなぜかお湯が少なめ。エコか節約なのか、と思っていたところ、隣の女風呂では誰かがお湯を抜いてしまったという。そのため風呂釜が空焚きになって風呂は使えなくなった。原因はどうやら中国人の宿泊客。習慣の違いだろう、入浴後はお湯を抜くものと思ったらしい。
次のトラブルは夕食。この日の夕食は外食の予定で、予約を入れてなかったが、外は雪。億劫な気持ちもあったが、そのとき、
――食事の用意ができました、
との連絡。手違いだからキャンセルすべきだが、そこは穏便に、
――用意して戴いたなら戴きましょう、
と保養所で夕食を戴いた。これが美味しかった。保養所の管理人さんは恐縮して何度も謝っていたが、災い転じて福と為す。料理は旅館並みで、ゆっくり食事をすることができました。
長女はその日、大変な一日だったらしい。アイスランドで火山が爆発して、ヨーロッパの空港はどこも閉鎖。その影響でホテルの宿泊客にも影響が出た。飛行機は飛ばないし、延泊しようにもホテルは満室。他のホテルも同じような状況で、お客さんの中には、
――月曜の朝までにパリに行かなければならない。
  ヨーロッパのどこでもいいから行けませんか、
と頼み込んできたが、そんな状況はどこも同じ。航空会社に電話しても繋がらないし、一人のお客さんの対応に2時間以上要して、他の仕事も山積み。予定したバスを1本遅らせ、ようやく新宿のバス乗り場に着き、発車1分前に飛び乗ったという。
――今まででいちばん忙しい日だった、
と話していたが、その日はてんやわんやだったらしい。
しかし、保養所の管理人さんは愛想がよく親切。チェーンなしでバス停まで行けるでしょうか、と問い合わせたところ、お迎えに行きますよ、とわざわざバス停まで迎えに行ってくれた。ほんの少しのトラブルはあったものの、リカバリーは上々で、二重丸の対応でした。
翌日は、保養所の風呂が使えないので近場の温泉を探した。「紅富士の湯」という日帰り温泉だった。保養所から車で5分ほどの所にあって、入ってびっくり。大窓の向こうには麓まで雪を戴いた富士山があって、思わず、
――コレ、風呂屋の看板じゃないよな、
  本物だよな!・・。
目の前には真っ白な雪を抱いた富士山。一幅の美しい絵を間近に見て、この旅行の「運の悪さ」と「運の良さ」の両方を体験することができました。

僕が小学生だった頃――。
春先に車で山中湖までドライブして、湖畔のホテルに泊まった。前日から雪が降り、その夜も雪は降り続いていた。翌朝、カーテンをあけると、目の前には麓まで雪を戴いた富士山・・。そのときの衝撃、そのときの感動。神々しいほど眩しい富士山があって、その美しさと迫力に心躍りました。麓まで雪を纏った富士山は、あたかも白い衣を着た舞姫のようで、これに優る美しさはこの世にはないように思えた。

2018.4.6

日本桜紀行

6年前のこと――
思い立って連休中に
弘前の桜を見に行くことにしました。
東北はGWの頃が桜の見頃で、
秋田の角館は枝垂れ桜が咲き、
弘前城は桜花爛漫の桜の見頃を迎える。
とは言っても
GWに車で行くのは交通渋滞が心配だし、
宿の手配もしていない。
そんなの無理!と思ったものの、
半ば強引に
日本列島縦断の桜の旅に出ました。

桜は時の流れの合わせ鏡。
桜を見ながらそのときどきの思い出が蘇る。
入社式や入学式など、
桜の花を見ながら時の移ろいを感じ、
人生の歓びや哀愁を感じる。
それは多かれ少なかれ
誰もが感じることなのでしょう。
この辺りは桜の咲く今頃が入学式。
市内の小中学校には、
必ずといってよいほど桜の木々があり、
新入生を出迎えるように
桜の花が一斉に咲き誇る。
そして記念すべき小学1年生の
国語の教科書の1頁は、
さいた さいた さくらがさいた、
とあって、
それが記憶の片隅に今も残っています。
受験の合格発表もかつては、
サクラサク/サクチルの電報が
送られてきたものでした。
良いことも、不運なことも、
そうした例えに使われるのは、
やっぱり、桜ーー。
桜は日本人の心の原点ともいえそうです。

◇角館(秋田県)
言わずと知れた東北の小京都。角館の桜は、武家屋敷通りに降り注ぐ枝垂れ桜と、川沿いを豪華に彩るソメイヨシノがある。武家屋敷の枝垂れ桜は、屋敷の中からしな垂れて下がる枝に、ほんのりと色づいた薄紅色の桜の花が美しく、町内には約300本の枝垂れ桜があるといいます。そして、町の中心を流れる桧木内川の両側には、約2kmにわたってソメイヨシノの桜のトンネルがあり、コレもまた見事です。
角館の桜は、4月中旬から5月上旬が見頃。雪に閉ざされた東北の城下町は、町中が薄紅色の桜の花に包まれて、春の訪れを告げる角館桜祭りが行われます。

角館のしだれ桜↑ 桧木内川↓

◇弘前(青森県)
桜の花は、美しく、気高く、潔い。
桜の花の開花時期は1週間と短く、一斉に咲いて、一斉に散る。とりわけ散り際の美しさが際だち、そよ風が吹いて桜の花がはらはらと舞い落ちる。その姿を、日本人は花吹雪と呼び、咲くときの華麗さに対して、散り際の潔さが際立って、武士道の精神にも通じると言います。日本のご城下には、この桜の花が目立ち、とりわけ弘前城の桜は有名です。日本一の規模を誇る弘前公園の桜とともに、毎年4月下旬から5月初旬にかけて、美しい桜の花が町の景観に彩を添えます。

この弘前の桜は江戸時代半ば、津軽藩士が25本のカスミザクラなどを京都から取り寄せて、城内に植えたのがはじまりとされています。しかし、明治時代を迎え、荒れ果てた城内を見かねた旧藩士が、ソメイヨシノ1000本を植栽し、その後も市民から寄付は続いて、大正時代にはお城の周りは見事な桜で埋まったそうです。

弘前城の桜

◇三春滝桜(福島県三春町)
東日本大震災から7年。被災地では復興の槌音が響き、かつての姿を取り戻しつつあります。
三春の滝桜は、郡山から東へ15kmほどの三春町にある。樹齢推定1000年のベニシダレザクラの巨木で国の天然記念物に指定され、日本の三大巨桜の1つとして挙げられる名木です。
滝桜の名前の由来は、四方に広げた枝から薄紅の花が流れ落ちる滝のように咲くことから名付けられました。桜の咲く頃になると、毎年、30万人の観光客が訪れましたが、ひと頃は福島原発事故の影響で観光客が激減したそうです。

三春の滝桜

2018.4.4

山陰ひとり旅

山陰ひとり旅――。
大学4年になる春休みのこと、
ある意味で自分探しの旅だった。
親父とお袋は病床に伏していた。
5月には就活が始まる。
いたたまれない気持ちで親父を見舞い、
お袋の顔を見ながら、
自分がどこへ向かい、
どうなっていくのか分からずにいた。
自分の将来は
自分のことではあるけれども、
自分ひとりで全てを決めるわけにはいかない。
就職しても地元には戻らない、
と決めていたが、
そんなことばかり言ってはいられない、
と考えはじめた。
そのときにこんなものを書きとめた。

**

旅行ガイドブックをめくりながら
ふと思った。
――旅に出よう。

僕はこの思いを
何度口にしたことか。
悲しさや淋しさの中にあるとき、
遠い荒涼とした原野を…
電車の車窓から流れる景色を…
そして誰も見知らぬ街を…、
ひとり歩いている自分の姿を思い浮かべた。
人は誰しも一人旅に出るとき、
そこになんらかの淋しさがあり、
ある哀惜の情にも似た
物悲しいひとりの人間の顔がある。
僕にはそう思える。
僕はいったいなぜ
旅に出たい――
と思うのだろう。
遠い遠い枯野を、
断末魔の中に追い求めた
芭蕉のようにか、
それとも心の痛手を忘れるためなのか…。
そうではなく、
未来に淋しさが渦巻いている。
迷いがあり、決意があり、
それ故の淋しさがある。
ひとりの人間は
いつもこうした
悲しみを背負っている。
そしていつしか別の自分が
旅の誘いの中で頭をもたげる。

僕は過去と未来の接点で
もっと確かな手触りを、
もっと確実ないのちを欲している。
人が人である故の悲しみと
人が人である故の生への渇望の中に
迷いの淋しさがある。
だから旅に出る。
僕の中に
いのちを吹き込むために
そして新たな道を歩き始めるために…。

時計が12時の鐘を打つ。
時折り道路を疾走する車の音以外
なにも聞えない。
僕はガイドブックをたたむ。
僕は旅に出よう、
そして生きよう。

松下村塾
歴史の佇まい 萩

**
旅に出ることにした。
ちょうど3月の今頃の季節だった。
なにかを捨て、なにかを背負うために。
そのときは山口から秋芳洞、そして津和野から萩に出向いた。3月も末とはいえ寒い日もあった。秋芳洞に着いた日は小雪がちらつく日で、秋芳洞から萩に向かうバスに乗った。雪が降って窓の外の景色も見えない。隣にはやはりひとり旅をしている学生がいた。京都大学の学生で、3月だというのに就職は決まっていると言う。暫くして彼は下車。さらにバスは走り萩に着いた。駅前で自転車を借りて市内を廻った。雪がしんしんと降り、冷え冷えとした空気が肌を刺した。冬ざれた風景は自分の心象風景にぴったり符合し、自分の想いを重ねるように淋しい雪を降らせていた。
東京に帰るとほどなくして父は亡くなった。病床に伏しているお袋を残してどこかに行ってしまうなんてできない。そう思って、5月初めに地元に帰ることができる会社に就職を決めたが、お袋も帰らぬ人になった。

人には語るにも辛い経験があり、悲しい想いもする。かつて高橋和巳という作家がいて、彼が書いたエッセイの中に、
人の核を作るものは、辛い経験や悲しい想い。
闘病であり、失恋であり、戦争経験の場合もあるだろう。
人には語るに重過ぎる、
奥歯にかみ締めて果てるべき経験が人間の核になる。
という言葉がある。人の経験はいいことばかりじゃない。けれど、人には知りえない負の側面が、人の核として活きる。海援隊の「贈る言葉」という歌の中に、人は悲しみが深いほど、人には優しくなれる、というフレーズがあるが、自分が辛い想いを経験すれば人の心の痛みがわかる。だから優しくなれる。人の気持ちを理解するとは、自分の思いを重ねるという側面があり、辛い経験も、悲しい思いも、大事な経験のひとつになるということだろう。奥歯にかみしめてはてるべきことも、それがやがて人を創り、人の核になる。

2018.3.23

初めての九州②/思い出の風景

草千里

九州の思い出では
草千里の風景が懐かしい。

道は阿蘇の外輪山に沿ってなだらかにうねり
周り一面の草原の中に、
草を食む牛の姿が見える。
車は大きく弧を描きながら走り、
その途中に
トウモロコシ売りのおばさんがいて
車が通りすぎるたびに大きく手を振り、
――トウモロコシ、甘いよぉ!と叫ぶ。
その声に誘われて車を止め、
トウモロコシを頬張る。
確かに甘い!。
顔をほころばせて食べました。

高千穂渓谷

五ヶ瀬川の高千穂渓谷。
その風景も懐かしい。
高千穂は日本書紀の天孫降臨の地で、
近隣には天岩戸神社があり、
天照御神様がお隠れになった、
という伝説があるところ。
そんな神話の世界があるせいか、
高千穂渓谷の風景も神々しい。
V字に切り立った谷川の水は、
神秘的なほど深い緑を湛え、
その谷をボートで漕ぎながら
崖の上から流れ落ちる滝を見ていた。
神々の宿るところ。
高千穂の峰々と阿蘇の外輪山。
九州の中にあっても、
この辺りは異種混合の別次元の世界があって
なにかしら違う匂いを感じました。

現在の原爆資料館

九州の思い出を綴るうちに、
もうひとつのことを思い出しました。
長崎の原爆資料館のことーー
僕らが訪ねたときは
長崎文化会館にあって
古びた粗末な建物。
そこに原爆にまつわる資料が、
展示されていました。

先日、ポーランドに行って、
アウシュビッツの収容所を訪ね、
そのとき原爆資料館の記憶が重なりました。
アウシュビッツは世界遺産。
世界に誇る文化遺産ではなく、
人類が忘れてはならない負の遺産として。
長崎の原爆資料館は、
世界遺産ではありませんが、
アウシュビッツと
同じ根っこにある史跡。
人類の記憶に刻み込んで
決して忘れてはならない負の物証です。
とはいえ、
長崎の原爆資料館を訊ねたときは
さほどの期待もなく、
なんとなく立ち寄ったに過ぎませんでした。
それでも資料館に並んだ展示品を見て
圧倒されました。
その当時、
館内の天井下の壁一面には、
巨大な写真パネルが掲げられ、
焼け爛れた長崎の町を映し出し、
被爆直後の惨状を伝える絵や、
写真、被災物などが展示されていました。
跡形もなく焼け落ちた家や建物、
その中に佇む人がいて
うなだれて悲しげでした。
写真の隣には一編の詩があり、
その詩が写真の映像と重なって、
激して思わず涙がこみあげました。
人は過ちを犯すーー。
日本は第二次大戦で莫大な被害を被り、
そして知りました。
自ら引き起こした戦争ではあるけれども、
決して戦争はやるまい、
忘れまい。
それが日本人の誓いであったと思います。
2018.3.9、

初めての九州①/方言

初めての九州――
大学のクラスの友人4人で九州へ行った。
我が侭を押し通して、
我が家の車で20日間の旅に出て、
ユースホステルや国民宿舎、
ときにテントに寝泊まりしての
貧乏旅行だった。

自宅を出発して二人の友人を東京で拾い、
同行する大阪の友人宅に寄って、
そこで二泊。
そこから岡山を経由して、
山陰、九州の道を辿る。

その途上の
岡山から中国山地を横断し、
島根に向かう途中の出来事。
あの頃はナビなんてなかった。
馴れない山道で
どこをどう走ったのか迷った。
周りを見ても目印になるものはない。
車を走らせていると
おじいさんが自転車を押して歩いていた。
車を止め窓をあけて道を訊ねた。
――あのぉ、道に迷っちゃったんですけど、
松江はどう行ったらいいんですか?
おじいさんは答えたが、
わからない。
何度も聞き返したが、
やっぱりわからない。
4人で顔を見合わせてしまった。
結局はわからずじまいで、
ありがとうございました、
の言葉を残して走り出した。
後になって、
ここが「亀嵩」辺りと知った。
亀嵩(かめだけ)は、
松本清張の「砂の器」に登場する地名で、
殺人事件の鍵を握る場所。
殺人事件のあった夜、
被害者と容疑者らしき男が
蒲田駅近くのバーで話し、

彼は東北訛りの、
癖のある言葉で「カメダ」と
話していたとの情報を得た。

それに警察は「カメダ」を探せ、
と色めき立った。

しかし東北弁と思われた言葉は、
実は山陰の片田舎「亀嵩」
であることがわかった。

山陰地方の中でもこの辺りは
東北弁に似た訛りがある。
だから僕らが聞いてもわからない。
そうだったんだよなと納得した。

指宿海岸

もうひとつの方言のこと。
指宿の海岸でテントを張ったとき、
海岸に並行するローカル線にSLが走り、

西に目を向ければ開聞岳が聳える。
それを見て、
九州に来たんだなと感動も一入だった。
見慣れない旅行者に
興味をそそられたのだろう。

おじさんが二人、親しげに話しかけてきた。
でも、何を言っているのかわからない。
こちらの話すことはわかっているのに、
話は一方通行で、
みんなで目を白黒させた。
九州にも方言はある。
それでも問題はなかったが、
鹿児島は九州の中でも異質の文化がある。
かつて薩摩藩は外様の大藩で、
他藩の人間を寄せ付けない異郷の地、
聞き取りにくいように
わざわざ分りにくい方言にした、

との話もある。
鹿児島へ向かう道路も、
深い谷を切り裂きループ状の橋を降りて、
長い長いトンネルを通り抜けてきた。
本当に遠いところに来たなと思った。
僕自身も小学生の低学年まで、
地元の小学校に通い、
生粋の地元弁を話していた。
独特の訛りのある方言だったが、
今は意識しても話せないし、
口にしても馴染まない。
独特の方言だけでなく
イントネーションも特別。

中学の先生は、
この土地の方言に染まったら
アナウンサーにはなれないよ、
と話していた。
ところが親類はアナウンサーになった。
奇跡だったのかも・・。
学生時代に友人が訪れたときも、
近所の人が話すのを聴いて、
何を言っているのかさっぱりわからない、
早口で意味不明。
聞き取れないと話していた。
僕らには当たり前に聴こえる方言や、
特有のイントネーションも、
聞きなれればどうってことはないんですが。

蒼井優主演の「フラガール」
という映画が上映され、
それを観たことがある。
舞台は常磐炭鉱のあった炭鉱町で、
フラガール誕生の秘話。
福島の県境辺りが舞台でしたが、
あの方言を蒼井優は見事に
演じきって、
あの顔で、あの方言!と
強烈なインパクトを与えて

そのギャップに驚いたものでした。
青春時代の夢と希望――、
それは色々な場面で出逢いますが、
この映画は時代に左右されながらも
強く逞しく生きる女性を描いていました。

方言は宝という人もいる。
そこには懐かしさと優しさがあり、
それを耳にすれば、
お互いは同朋であり、
同じ価値を共有する仲間になることができる。
石川啄木は上野駅で、
ふるさとの 訛なつかし 停車場の
人ごみの中に そを聴きにゆく

という歌を詠みましたが、
上野駅はかつて東北本線などの終着駅。
人ごみの中に懐かしい響きを探して、
心の慰めにしたのでしょう。
しかし、方言を恥ずかいと思う人もいる。
東京で方言を話せば
田舎者と言われはしないかと思い、
いじめの原因になることも

あるというのですが。

2018.3.7

広大無辺の大地・北海道

美瑛の丘(前田真三)↑↓

北海道の魅力は
なんといっても、
伸びやかに広がる風景。
空と、海と、湖と、大地と、
それらが渾然一体として
広大無辺なる
雄大な風景を創り上げている。
とりわけ、
北海道は真っすぐに伸びる
道が美しい。
どこまでも果てしなく
一直線に伸びて、
上下になだらかにうねり、
遠くかすむ道の端で
地平線と空が交わる。

北海道は
どこを切り取っても
絵のような風景が広がる。
その中でも、
富良野や美瑛が美しい。
この風景に日本の美を見出し、
此処を住処として、
一幅の写真絵巻を撮り続けた
写真家、
前田真三を思い出す。
彼の亡き後も、
この風景を求めて
多くの写真家がこの地を訪れたが、
今もなお彼を超えることはない。
じゃがいも畑や
ラべンダーの畑など、
通り過ぎれば
見過ごしてしまうかもしれない、
なんの変哲もない風景。
その風景に美の極致を見出し、
夢幻原野の新たな世界を
切りひらいてきた。
そんな風景を探して
僕らは富良野や美瑛を訪ね、
そのたびにこの風景の美しさを
再認識したものです。

ここを拠点に活動したもう一人の有名人に脚本家の倉本聡がいるーー。
彼のドラマ「北の国から」では、主人公・黒板家族は日々の暮らしを支える水や食べ物にさえも苦労し、必死に生きる姿が描かれていましたが、それは人が生きる証としての、生命の鼓動そのもの。人と自然が共存する北海道の原点であり、だからこそ北海道は手作りの旅がよく似合う。今はどこでも簡単に車で行くことができる。それはそれなりに愉しいが、旅の醍醐味である手作りの感触が失われつつあるように感じる。僕自身の思い出に残る最初の旅は、学生時代の北海道の旅。そのとき「知床旅情」という曲が大ヒットし、哀切をともなう物悲しい旋律が北海道への旅心を誘ったものでした。その当時は、ユースホステルと周遊券の旅が、旅の定番。旅行の計画から、交通機関の手配、宿泊先まで全て手作りで、思い出の頁を綴っていきました。だからこそ思い出せばどことなく切なく、懐かしい匂いがします。

きっかけは春休み。早稲田に入学する友人と渋谷の喫茶店で待ち合わせ。久しぶり!、と言いながら顔をほころばせて歩いてくる。
――スキーに行ったんだな、
と声をかけると擦り剥けた鼻を撫でながら、
――おかげでパンダになっちゃったよ、
と眼の縁の白いゴーグル跡を気にしている。ともかく話をするうちに、
――夏休み、どこかに行きたいな、
という話しになり、北海道に行こうということになった。あれは「知床旅情」がヒットした後のこと。そのメロディが奏でる北の果ての旅情に誘われて、北海道行きが決まった。旅の計画は、仕掛人となった某氏が仕切る。ガイドブックをひろげ、時刻表を開いて旅を創る。まだNETなんてない時代。旅の計画の苦労はあったが、それさえも愉しく、新鮮だった。

旅の始まりは7月末の夜行列車。旅仲間は4人。今ではブルートレインと呼ばれる夜行列車も、時代の趨勢に押されて影が薄くなったが、夜行列車ほど旅心をそそるものはない。寝台列車の3段ベッドのどこに当夜の寝床を構えるか。それも籤で決める。下段は広くて揺れが少なく寝心地もいい。それに比べると上段は狭くて天井が低く、列車の揺れも大きい。夜行列車はなかなか寝付けない。乗り馴れないせいか列車の揺れが気になるし、なんとなく旅立ちの興奮もある。それでも時がたって睡魔に誘われる。
夜のしじまにカーテン越しの光が洩れ、やがて鈍い光が控えめに射し込んで、朝が来たことを告げる。と言っても夏の朝は早い。まだまだ夜と思いつつも、なかなか眠れない。そっとベッドを抜け出して、通路の向かい側にある窓にもたれながら窓の外を見る。レールを軋む列車の音がして、それを聞きながら見るともなしに薄暗い闇に包まれた景色を眺めていた。そうこうしているうちに仲間も起き出して来る。
――今、何時ぃ?
と言いながら眠い眼をこすり、あくびをしている。時計を見ても5時を過ぎたばかり。友人は歯ブラシとタオルを手にして洗面所に向かう。なに気ない景色と、他愛ない動作。そんなひとつひとつが妙に旅心をそそり、脳裏に刻まれている。
青森からは青函連絡船。札幌行の列車に乗り換えて小樽へ。今では青函トンネルができて列車で通り抜けることができる。全長54km。隔世の感だ。小樽駅では親戚が出迎えて、札幌の羊が丘でジンギスカンをご馳走になった。広々とした草原をバックにおいしい食事。思い出の風景。
翌日は車で積丹半島を案内してくれた。積丹の海は美しい。深い藍色を帯びた海が夏の光をあびて、北海道の海がこんなに綺麗なのかと驚いた。そこには積丹ブルーの美しい海が広がっていた。

積丹ブルーの海

その後は、旭川から網走―知床―摩周湖―阿寒湖―襟裳岬―日高から洞爺湖へと渡った。その間10日位。旅の宿は殆んどユースホステル。学生は金がない。YHはその当時、安宿の代名詞だったが、出会いの場でもあった。夕食後は、旅仲間と一緒にゲームをしたり、歓談して過ごした。その中には旅の達人もいた。当時の旅の定番は北海道周遊券の旅。有効期限があった。彼らの中には、行く先々で旅を終えようとする旅人に声をかけ、有効期限の残る周遊券と交換しながら旅から旅へと巡る。襟裳岬で会った旅の達人は、そんな風にして1ヶ月以上旅をしていた。

襟裳岬
百人浜

襟裳岬は暑い夏。
北海道の思い出の場面。なにげない風景ですが、今も記憶に刻まれる風景となっている。襟裳岬に隣接して百人浜と呼ばれる美しい浜がある。海岸に沿って襟裳岬から10Kmほど続く長い浜ですが、数々の伝説と、歴史が刻まれている。江戸時代の末期、ロシアの南下を防ぐため、警護に向かった御用船が嵐で難破し、多くの遺体が浜に流れ着いたという。沖に漂着した僅かな人も、飢えと寒さで命を落とし、百人ほどの犠牲者があったとされる。そんな悲しい伝説が、美しい風景に溶け込んで、旅する人の心に刻まれる風景になっていました。
そんな伝説と名前に魅せられて百人浜に向かう。往路はバス。広々した草原にバス停の標識だけがポツンと立っている。そんなバス停を降りて周りを見回せば、海と、砂浜と、草原以外には何もない。それでも背伸びして、元気よく歩きだした。
—―いいなぁ、こんな景色、
と言いながら俄かに空が暗くなって、やがて大粒の雨が降り出す。慌てて走り出したが、目指す先は遠く、雨をしのぐものはなにもない。あきらめて、びしょびしょに濡れながらテクテクと歩きだす。夏の日の、天然シャワー。あの夏の感傷が妙に懐かしい。
それでは。
2018.2.26

日本橋/水と緑の再生を

平昌オリンピックが佳境を迎え、2年後には東京でオリンピックが開催される。
オリンピックは平和の祭典。日本の将来を展望するとき、この東京オリンピックを抜きにしては語れない。前回の東京オリンピックは1964年。半世紀を経て東京で再びオリンピックが開かれるが、それに向けてインフラの整備だけでなく東京都心を中心に大規模な再開発が行われ、それとともに東京の姿は驚くほど変わる。

半世紀前の東京オリンピックーー
その記憶は今もなお鮮明だが、その当時は首都高速が整備され、新幹線が走り、東京タワーが完成した。次々に東京の新しい姿が顔を表し、日めくりカレンダーを見ながらワクワクした気分でその日を待ちわびたものだった。そしてそれを機に、日本は高度経済成長の波に乗り、世界に冠たる経済大国になった。その夢を再び!日本経済はそうした展望を描いて、この東京オリンピックに賭ける。

2年ほど前のこと、シルク・ドゥ・ソレイユの「オーヴォ」を観に行ったとき、見慣れない道路を走った。これは通称マッカーサー道路と呼ばれ、もともとは、戦後の復興計画に組まれていたが、その後60年間凍結されて、ようやく4年前の3月に全線が開通した。これは東京再開発の事始め。東京都心は三菱地所や三井不動産など、不動産大手が手掛ける再開発が急ピッチで進み、東京オリンピックを照準に再開発の構想が進められている。東京駅の化粧直しや、丸ビルやその周辺地区の再開発、そして今は八重洲側の再開発などが進められている。それだけでなく、東京オリンピックを起爆剤として次々と再開発の槌音が鳴り、渋谷駅前、新宿、池袋、そして二子玉川や武蔵小杉にせよ驚くほどの変貌ぶりを見せ、少したてば東京都民ですら浦島太郎症候群に陥るかもしれない。

そんなとき思い出すのが日本橋。
広重の浮世絵では、東京五十三次の起点として当時を彷彿とさせる風景が描かれている。日本の原風景、お江戸日本橋。しかし日本橋は今、高速道路に覆われて昼間でも薄暗く、往時をしのぶ姿はない。お江戸日本橋の姿は消えた。

現在の日本橋
お江戸日本橋

都市に水と緑の空間をーー。
東京は前回のオリンピックで、東京をコンクリートに覆われた無機質な空間に変えた。しかし、世界の都市を見渡せば、水と、緑と、人との共存が都市に美しい空間に蘇らせ、水のある風景がそこに暮らす人に潤いを与えている。そうした点が今、世界中で見直されている。10年以上前のこと、韓国のソウルでは町の中心を流れる清渓川の蓋を外すという大々的な工事が行われた。ソウルもまた都市空間の有効利用で街の景観を変えた都市。そのために川を蓋で覆い道路を拡幅したが、老朽化が進んで川の復興計画に異論が起きる。都市を再生しよう。活きた空間にしよう。美しい都市にしよう。莫大な資金を投入して都市は水と緑によって再生された。
日本でも同様の動きがある。日本の川べりは護岸工事でコンクリートに覆われ、水生動物や魚が住むことができない。そこに土を盛り水との境界に緑を再生し、河岸に沿って遊歩道が作られる。その象徴となるかもしれない、日本橋と日本橋川。日本橋はかつて東海道をはじめ全ての道が此処を基点に始まったが、オリンピック開催を機に橋の歴史に異変が起きた。川は公共の地で、高速道路の整備を急ぐ東京都や国は土地買収の不要な日本橋川の上に高架橋を架けた。この景観の評判がすこぶる悪い。川の上には高速道路が走り、橋の上の空は奪われて風景もなにもない。周辺には日本橋三越や高島屋をはじめ、お江戸の老舗が並ぶ。

都市に水と緑の空間を。
美しい日本の、お江戸の景観をーー

そうした声に背中を押されるようにプロジェクトが立ち上がる。それが今、どうなっているのか。高速道路は川の下へ、あるいは迂回路を、といくつかのプランがあったが、その姿が今もなお見えない。日本は美しい自然に恵まれ、ほかの国に決して劣ることはない。東京はコンクリートとアスファルトに覆われた無機質な空間だが、人の叡智と努力で美しい町に変えることができる。古い町並みと新しい都市の景観。それが共存して、世界のどこにもないエキゾチックな都市にすることができる。それが叶えられれば日本もまた観光立国として海外から大勢の観光客を呼び寄せることができる。世界に通じる観光立国。中国や台湾、韓国などの近隣国に頼るだけでなく、真に魅力的な国にすること。そのためにも、水と緑の再生を。魅力的な町を。それによって日本は世界に通用するステイタスを得て、海外の人の眼にも心から魅力ある国として映るようになる。美しい日本の、美しい都市。東京ーー。その姿が見たい。

日本橋改造構想/高架橋撤去後の日本橋

2018.2.18

世界の中の日本

タイでは日本旅行が大ブレイク。
前年比で50%増だという
。と言っても4泊6日で旅行費用は16万円ほどだいうから決して安くはないが、タイの人にとって、日本は憧れの国。海外旅行の人気ランキングでもトップを走っている。大分前になるが、テレビでタイ人女性グループが日本を旅行する姿が紹介されていたが、なんでこんな所に!?と思うような日本人が見向きもしない富士山のビューポイント?で、背景にはさほど有名ともいえない五重塔が映し込まれている。タイではこうした場所をモニタリングして、それをテレビや雑誌で紹介し、私は日本のこんな所を再発見!とするのが流行りだという。タイは昔から親日国として知られているが、なんとも微笑ましい限りだ。彼らの渡航の目的は、美味しい日本食を食べて、ショッピングすること。それも、日本に住んで、日本で暮らす人にとっては当たり前の風景で、ありふれて、なんの変哲もない景色でも、ときとしてそれが彼らにとって魅力として映る。それが彼らの「Cool Japan」

観光立国・日本?!と呼ばれて久しい。
日本への旅行者が急増し、10年ほど前まで800万人だった渡航者が、昨年は3000万人に迫るという。大半は中国や韓国、台湾などのアジア近隣国だが、それにしても海外の人にとって日本はどんな魅力があるのだろう。それはなにも日本的な風景だけでなく、日本らしさの魅力は至るところにある。その中でも、日本人の気配りと親切さ、国民性の優れた点は世界中のあらゆるところから賞賛の声が届く。イギリスの最近の雑誌で、東京は「世界の住みやすい都市ランキング」で2年連続トップという栄光に浴した。それにベルリン、ウィーンが続く。東京は物価は高いが、安全で、清潔で、便利で、食事は美味しく、人が親切だという。

先日、海外の人の眼から見た日本の魅力を紹介した本を読んだことがある。変わり種として知られているのが渋谷の交差点。人がぶつからないで交差する姿が、外国人にとって「Cool」だという。それだけでなく日本人のマナーのよさ、親切さにも驚嘆の声あげる。かつてテレビで日本人は落とした財布に気づいたら落とし主に財布を返すだろうか?との実証実験を紹介していたが、10人中10人、拾い上げて小走りで前を行く落とし主に届けた。海外の人にとってはありえないこと。日本人はなんて正直で礼儀正しいんだとなる。

時間の正確さにも定評がある。これは世界広しといえど日本を越える国はない。数ある鉄道は全て定刻どおり、1分の狂いもない。朝のラッシュ時でも分刻みで列車が入り、時間の管理は全て秒刻み。電車を待つ人は駅のホームで列を作って並び、どんなに混雑していても、駅員の誘導で秩序正しく電車に押し込まれてゆく。これが凄いという。とかく海外では列車の定刻はあってないようなもの。中国では時間どおり列車が発車することはない。ある人が中国で列車を待っていると、定刻通りに走り出して、おっ今日は珍しいなと思っていると一日遅れだったとのエピソードもある。

日本文化の象徴として注目されるのは、トイレのシャワレットと自動販売機。日本に住んだことのある外国人なら、日本の便利機能の筆頭にシャワレットをあげる人が多い。自動的に便座が開いて、用を足した後の便利で気持よい快感を味わうことができる。だから母国に帰っても、我が家にもアレがほしいという人が後を絶たない。そして自動販売機。喉が渇いたとき、これを探すのに数百m歩く必要はなく、ほんの少し歩けば見つけることができる。しかも種類が豊富。清涼飲料水や、お茶、お菓子もあり、珈琲はさまざまな種類のプレンドや、砂糖付きとなし、ホットとアイスなど、どんな要求にも応えられる。これが凄いという。日本人のおもてなしやサービスの質の高さにも驚く。7&11はアメリカがルーツとなるが、ノウハウは100%日本発。コンビニは超便利。品揃えが豊富で、どんなものでもあり、郵便ポスト、発送と受け取りができる宅配便の取り扱いや、コンサートのチケット販売、銀行のキャッシングなど、これでもかこれでもか、というほどコンビニには便利機能が詰まっている。最近は日本型コンビニが台湾や韓国だけでなく、ヨーロッパでも見られるようになった。コンビニはある意味で日本らしいおもてなしの発想が原点にある。お客さまがなにを望み、心地よいサービスとして感じるのか。それを究極まで推し進め、その先にコンビニの理想の姿がある。それが商売上のおもてなしの作法、サービスが売り上げに貢献するとの考え方に基づいている。

エピソードⅠ
本人のサービスはこれにとどまらない。
ある中華料理店でのこと。ラッシュ時の駅構内のように店内はすし詰め状態。そこに外国人が来て席に座った。ところが後からもう一人の客が入って来たので、席をあけようと奥に詰めたとき、うっかり醤油の瓶をひっくり返してしまった。ほかの客は慌てて紙ナプキンで醤油を拭き取り、店員もお絞りを手にして飛んできた。客がテーブルを拭けるようにとトレイを持ち上げると、さらにトレイの上の器を倒してこぼしてしまう。店員は新しいお絞りを取りに走り、彼は事態を収拾しようと焦りながら平謝りに謝った。周りの客は迷惑そうにすることもなく、気の毒そうに見ている。こんなに混んでちゃ仕方ないよ、という風に。そして店員は器をさげると、濡れませんでしたか、大丈夫ですか、と言いながら何度も頭を下げ、代わりの料理を運んできた。店の責任ではない。けれど、そんなこともごく当たり前のことのように振舞う。そんなことは考えられない、海外では。けれど、日本人はそれをごく普通のことのように応じる。それがおもてなしで、日本人らしさ。そうした客のおもてなしが日本人は凄いという。日本人のサービスは世界の人たちから見れば、ある意味で常軌を逸している。レジでもにこやかに応対し、どんなときも礼儀正しく、愛想がよい。こうした姿は観光するだけでは出逢うことはないかも知れない。しかし旅なれるほどそれが日本人の素晴らしさとして外国人に受け入れられ、日本びいきは増えていく。
2018.2.16

美しい日本の風景/ホキ美術館

千葉市ホキ美術館

5年程前だろうか、日曜美術館というテレビ番組があって、このとき紹介されたのがホキ美術館でした。その中で部屋の中を描いた絵が紹介され、柱や家具の細部に至るまで緻密に描かれて、本物より本物らしく、人物画も本物を超えて実に活き活きとして、その迫力が胸に迫りました。是非、この美術館を訪ねて実際の絵が観たいと思いましたが、美術館は千葉市郊外にあってアクセスが悪く、車で行くにも遠い。しかし、とある日曜日、やっぱり行こうと意を決して足を運ぶことにしました。                              ↓生島 浩「5:55」

素晴らしかった。圧倒されました。眼にする一点一点に衝撃が走り、今まで見た絵とは全く別の感動がありました。美術館は、廻り廊下のようになだらかにうねり、階下から階上への移動は廊下で繋がって壁に沿って絵が並んでいる。それら全てが写実画。かつてはクールベなどの写実派画家に代表される西欧画壇の本道でしたが、写真の登場で衰亡の一途を辿ってきました。しかし日本では今、これら写実画の絵が見直されている。そこには写真にはないなにか。人の温もりや、手触りの感触、対象物が目の前で語りかけるような存在感。それら全てが圧倒的な描写力で、写真を超えた表現力がある。それは絵の内なるエネルギー。見るほどにその迫力が胸に迫ってきました。対象物を忠実に、精確に捉えるのであれば写真で事足りるだろう。しかし、目にした絵は、写真を超えた別次元の世界観が拡がっていました。人物画は勿論、草木や風景画、静物画に至るまで、どの絵も素晴らしいものですが、その中でも一点の絵が目に止まりました。生島浩の「5:55」という肖像画でした。左側の窓から斜めに陽が射して女性の頬を染め、写真にはない微妙な光を落として、それが美しい。身にまとう服の襞が軟らかく波打ち、指先のしなやかさに女性の気品が漂う。思わず引き込まれるような妖しい輝きがありました。

この女性像は生島浩による2010年の作品。絵の誕生にまつわるエピソードが面白い。モデルは見ず知らずの女性。近くの公民館で働いていたこの女性を見かけ、何度も足を運んで、是非、モデルになってほしいと頼みこんだが、そのたびに断られ続けた。それでも諦めきれずに、知人3人を介してようやく条件付きで描くことができたという。それが「5:55」。条件のひとつに帰宅時間があったそうです。

この美術館は他にも森本草介や島村信之など、日本画壇を代表する写実派の絵が展示されていますが、それら全ての絵が見事。

ホキ美術館は本物の素晴らしさを十分に堪能させてくれました。

2018.2.2

島村信之「ロブスター(戦闘形態)」
島村信之 「響き」
森本草介 「休日」
島村信之 「日差し」