赤坂発

学生時代は一人合点して、
自らを「趣味人」と称し、
こだわりと本物志向を求めていました。
単に表面をなぞるだけでは得られない、
ホンマモンの世界。
それに憧れていました。
かといって、
さほど多くない小遣いでは、
旅に出るほどの金があるわけでなく、
グルメを目指すには、
情報も先立つものもない。
とりあえず出来ることから、
と辿りついたのが、
珈琲通を自認することでした。
気に入った店で、
珈琲を飲み、
店の雰囲気を知り、
味を極める。
出先にこれはと思う店があれば、
新規開拓と称して店に入り、
珈琲と店の品定めをする。
そんな店が、渋谷や、新宿、
原宿、銀座などどこにでもありました。

学生時代の一時期、
赤坂に住んだことがあります。
赤坂は、新宿や、渋谷、池袋のような
ハブ拠点の大衆歓楽街ではなく、
かといって六本木や自由が丘のような、
その道の通を気取る街でもない。
日比谷や国会議事堂などを背に、
老舗の高級料亭が並ぶ
上流社会の裏の顔と言うべき街。
言葉を換えれば、
財界人やお偉方の夜の社交場とも言えます。
と言っても、
昼間歩けば赤坂は普通の街。
なんの変哲もない、
魅力の乏しい街に映ります。

その当時の住まいは、
メトロの赤坂見付から
霞ヶ関方面に歩いて7分ほどの所。
少し遠回りすれば赤坂の一ツ木通りが並行して、
その先にTBSがある。
赤坂はシンデレラタイムを廻れば、
豹変して俄然活気を帯びる街。
駅に向かう通りには、
日本を代表する「ミカド」というキャバレーがあり、
その前に並ぶ車は、
キャデラックやロールスロイスなど、
今で言うスーパーカーが勢ぞろい。
友達と「凄い!」、
と言いながら歩いたものでした。
そして夜ともなれば煌びやかに光輝くネオン。
昼と夜の顔――。
これほど落差があって、
これほど表情の違う街は、
他にはなかったと思います。
赤坂は学生が歩くような街ではない。
それでも時おり思い立って、
ここはと思う店に飛び込みました。
赤坂は他の街とはいささか雰囲気が違い、
ギターの弾き語りを聴かせる店、
王侯貴族がご利用賜るような
ゴージャスな店もありましたが、
お気に入りの店は、
TBSの前の地下にある喫茶店でした。
白を基調にした店で、
清楚でお洒落な店。
店の奥には白いグランドピアノがあり、
それを女性ピアニストが弾くのを聴きながら
珈琲を飲むのが好きでした。

そんなわけで赤坂では、
通学の行き帰りに、
ひとりで喫茶店に入り、
のんびりと本を読むこともありました。

とある日、
赤坂見附の前の喫茶店で、
二人の若い女性が、
賑やかにおしゃべりしていました。
――私ね、家を建てたら、
  家じゅうのドアというドアをあけて、
  音楽をがんがん鳴らしてお掃除をするの。
  それが夢!
という声が聞こえました。
他愛のない夢の話でしたが、
どこかしら共感するものを感じて
今でも記憶に残っています。

赤坂のことを書いていたら、
赤坂離宮――、
今の迎賓館を思い出しました。
迎賓館は今は一般公開されていますが、
これまでは国賓級の客をもてなす場、
我々には無縁の世界でしたが、
それが見学できるようになりました。
赤坂離宮という所を知ったのは、
高校生のとき。
その当時、好きだった女優がいて、
彼女が出演する映画の中で、
彼との待ち合わせに
赤坂離宮の正門前が使われていました。
映像を通して見る赤坂離宮は、
まるで別世界、
一度それを見たいと思っていました。
赤坂に住むようになってそれを思い出して、
赤坂離宮に行こうと思い立ちました。
しかし、目指す先は遠い。
同じ赤坂でも東と西の果て。
赤坂見附の駅から反対方向で、
紀尾井町の坂を昇り、
ホテルニューオータニの前を通って、
大通りに突き当たり、
これを右折する。
大通りの左側には石垣が延々と続いて、
どこまで続くともしれない長い道を歩いて、
やっとのことで石垣が途切れる。
その左手に豪華な門が見え、
その前に立ったときの衝撃は驚くばかりでした。
10mはあろうかという背の高い門は、
西欧風の瀟洒な造り。
その門を透かして中を覗くと、
広々とした芝生が広がって、
遥か彼方には宮殿風の建物が聳え建っている。
えっこれが東京!、
東京にこんな所があるの、
と圧倒されました。
その威容はとても、
東京のど真ん中とは思えない、
日本とは違う異次元の世界を見ているようでした。

赤坂離宮、今の迎賓館

そんなこんなの記憶の中の赤坂、
心象風景としての赤坂。
赤坂は東京を離れてから殆ど訪れることはなく、
記憶の底に埋もれていました。
しかし15年以上前ですが、
本場のブロードウェイミュージカル「CICAGO」が、
赤坂ACTシアターで上演され、
それを観たことがあります。
そのときは家族で観に行きましたが、
大学卒業後、殆ど初めての赤坂でした。
赤坂は住み慣れた街。
ほんの庭先の、
よく知っているはずの街でしたが、
これがわからない。
そのときは車で行きましたが、
右往左往して、
あそこにはあれが、
と思う通りや建物が見当たらない。
まるで浦島太郎症候群でした。
車から降りて街の中を歩き、
辛うじて一ツ木通りは判別しましたが、
別世界に迷い込んだようでした。

その当時の赤坂は今は昔。
全く原型をとどめないほど風景は変わり、
街は変わり、
住む人も大きく変わったのでしょう。
それでも記憶の中の赤坂は懐かしい。
思い出が蘇り、
どことなく郷愁を誘う
心洗われる風景が、
今でも記憶の片隅にあります。

かつての赤坂
今の赤坂

2018.8.26

原宿発

そして原宿――。
今では小ギャルが徘徊し、
修学旅行生が行き交う、
日本の観光スポットと言うべき処ですが、
あの街もかつては、
子供・小ギャルはそこのけそこのけの、
ヤング・アダルトの
最先端のおしゃれな街でした。
裏通りを歩けば、
今の自由が丘にあるような、
人には教えない、教えたくない、
ちょっとお洒落な店があって、
訪れるときの愉しみでした。
喫茶店も地下に潜れば、
他にはない美味しいスウィーツが並んで、
変ったメニューの店もある。

竹下通り

少し趣向の違う利用もあった。
学生時代は図書館をよく利用した。
試験が近づくとまずは、
原宿裏手の代々木中央図書館に。
二番手は、
有栖川ノ宮公園の隣の東京都中央図書館に。
どちらもきれいで、静かで、
勉強するには好適な環境でしたが、
人気が高いほど人の出入りも多く、
順番待ちの行列がありました。

それはともあれ、
公園通りをのんびり歩いて行くと、
やがてNHKから
代々木公園の入口にさしかかり、
右手にはお馴染みの代々木体育館が見える。
そして正面には、
映画のロケにもよく使われた
代々木公園への横断歩道橋がある。
この歩道橋から眺める原宿の通り、
そして表参道は、
賑わいの中にほっとする雰囲気があって、
のんびりと車が流れるのを見ていました。

歩道橋を渡れば、
目の前には代々木公園――。

東京オリンピック選手村の跡地である
代々木公園は、言わば東京のオアシス。

広々として、のんびりとして、
青葉若葉の季節は新緑が目に鮮やかで、
1年のうちでいちばん美しい季節。
公園の中では犬と散歩する人や、
楽器を抱えて演奏する人、
テニスやバドミントンに興じている人など、
日本の公園の中でもとりわけ西欧風で、
のんびりした公園だと思う。
木々を吹き抜ける風もさわやかで、
足を延ばせば、
明治神宮や表参道もすぐ近くにある。

代々木公園

気持ちのゆとり――。
今は何をするにも気ぜわしく、
気持ちのゆとりも忘れがちですが、
足の赴くまま、
気の向くままにのんびりと歩く。
そんな雰囲気が似合う、
公園通りが好きでした。

今でも原宿はよく行きます。
その当時ののんびりした雰囲気はなく、
週末ともなれば、
有象無象の人の群れ、
とりわけ最近、目立つのが、
海外からの観光客。
以前はアジアの観光客ばかりでしたが、
今は万国旗のように色とりどり。
顔で判別はできませんが、
色々な国の人が来ているなと感じます。

表参道を歩いていると
猛暑の中に長蛇の列ができていた。
お目当てはパンケーキの店、
エッグスシングス原宿店。
その日は夏休みで、
とりわけ厳しい猛暑の中!!

いつ入れるともしれない長蛇の列ができて
4時間待ちとの話もある。
信じられない!!
美味しいには美味しいが、
それほどのものかなとは思うのですが。

エッグスシングス原宿店

渋谷、
そして原宿。

この街は流行の最先端で、
ここから新しいなにかが始まる。

2018.8.22

渋谷発

渋谷から原宿に抜ける道――。
それを公園通りと言います。
かつてはあの通りが好きでした。
もっともあの頃は、
人が溢れんばかりの賑わいのある通りではなく、
ひっそりして、お洒落で、小粋な通り――、
そんな印象がありました。
甘味処の「雀のお宿」や、
関西風味のうどん店、
そして西武パルコも、
今ほどいくつも並んでいませんが、
若者には圧倒的な人気があって、
ほかには見られない
街並みとしてのステイタスがありました。
そんな公園通りも、今はしかし・・。

渋谷公園通り

以前、渋谷交差点の角の2階にある
スタバのカウンター席から
交差点を見下ろしていました。
渋谷の交差点は今では、
東京の有名な観光ポイントといえるでしょう。
人波が四方から雪崩れ込んで、
ぶつからないで交差点を渡る姿が、
なんとも不思議で、クールだと。
「クールジャパン」という番組で
日本在住の外人さんが話していました。
ともあれ休日の渋谷は余りにも人が多くて、
信号が変わるたびに
人波が交差点にどっとなだれ込む。

以前はこんなじゃなかったな・・。
渋谷はもっとゆとりのある、
癒しの空間だったように思います。

渋谷交差点

それでも街は進化する。
スペイン坂――。
西武百貨店の裏手にある小さな階段。
僕らが学生時代は、
この辺りはひっそりとして、
ありふれた裏通りでした。
しかしこの坂の命名とともに、
小洒落た店が並んで、
一躍、渋谷の有名スポットに躍り出ました。
ありふれた裏通りが、
今はスターダムに。
この坂の名前の由来は、
スペイン好きのカフェのマスターが
名付けたらしい。
ローマのスペイン階段じゃあるまいし、
なんとも大それた!と思いますが、
いずれにせよそうした名前に誘われて、
足を運ぶ人がいるわけです。
坂を昇りきった階段の途中に
クレープ専門店があって、
生クリームたっぷりのクレープを
食べたことがありますが、
アレ、旨かったな!
あの付近には当時、
壁の穴というパスタ専門店がありました。
その名のとおり岩をくりぬいたような手狭な店で、
10人も入れば一杯になる店でしたが、
やがて「壁の穴」のブランドとともに、
ここを拠点に全国チェーンを展開しました。
付近には東急ハンズが出来て、
裏手にはライバル意識むき出しの、
西武手がけるLoftが誕生しました。
渋谷のファッションプランナーとしての面目躍如。
次々に新しいスタイルの店がオープンして、
渋谷の、若者の街としての、
ステイタスを築いてきました。
若者が創り若者が集う街、渋谷。
渋谷のスタンスは、
今も昔も変わらないように思います。

スペイン坂

そんな渋谷ですが、
当時を振り返れば色々な思い出が蘇ります。
大好きな街の、大好きな店、
公園通り――――。
とりわけパルコの地下にある
詩仙堂という珈琲専門店がお気に入りでした。
落ち着いて風雅なインテリアの
バロック音楽の流れる店。
その店ではよくイ・ムジチ演奏による、
ヴィヴァルディの「四季」が流れていました。
お好みの珈琲はマンデリン。
喧騒の街で
ふっと安らぎのときを迎える至福の瞬間、
珈琲ブレイク――。

さらに街は進化する。
癒しを捨てた代わりに、
先進の流行が交わり、

渋谷は若者の創造空間としての
役割を果たしてきました。
渋谷は今も昔も先進の街、
若者の集う空間。
原宿のように地方の中高生、
変なガイジンさんがたむろすることもなく、
ファッションリーダーとしての地歩を固めています。

2018.8.20

上高地発

上高地に初めて訪れたのは、
30年ほど前のこと。
長男は足元もおぼつかない幼子で、
長女も4歳だった。
あの頃は上高地は車の乗り入れ自由で、
河童橋まで直行した記憶がある。
上高地は穂高岳や槍ヶ岳など
3000m級の山が聳える山岳地帯にあって、
アルプスの登山口として有名、
アルピニストの憩いの地でもある。
アルプスの山々を背にして梓川が流れ、
その渓流は清冽にして爽快。
川に手を差し込むと刺すように冷たく、
思わず手を引っ込めてしまうほど。
子供たちも一瞬、驚いた様子で、
その冷たさを感じたものでした。

二度目は10年ほど前。
当夜の宿は上高地の帝国ホテルでしたが、
長男は部活で参加できず。
このときは前夜までの豪雨で、
梓川は濁流のように流れ、
その日も雨が降っていた。
傘をさしながら河童橋まで
10分ほどの散策。
ちょっと残念な上高地になりました。

上高地帝国ホテル

3度目は家族全員で上高地へ。
同様に上高地の帝国ホテルに宿泊。
週末の金曜から1泊2日の短い旅行でしたが、
高原のリゾートライフを満喫しました。
その時はトレッキングにも挑戦。
今までは河童橋付近を散策する程度でしたが、
このときは明神池付近まで
往復2時間ほどの散策。
比較的平坦な道で木道も整備され、
普段着で歩くこともできる。
梓川と並行してナラやブナ、
白樺が生い茂る森を歩き、
リラクゼーションを身体一杯に感じて、
自然の実り豊かな風景を
愉しむことができました。

梓川と河童橋

そのときは中央高速~長野自動車道を経て
昼頃にはホテルに到着。
その後散策しましたが、
ゆったりとした時間を過ごし、
トレッキングしながら、
明神池付近では名物の岩魚を賞味。
岩魚は川魚の王様と言ってもいいほどで、
香ばしく、おいしい川魚。
その後、河童橋までの別ルートを辿り、
山を降りました。
河童橋付近で小休止。
此処で驚いたのは、
周りが中国人ばかりだったこと。
日本人かと思えば中国語を話し、
河童橋付近にいる7割ほどが中国人だった。
以前、富士山麓の忍野八海でも
中国人観光客の多さにびっくりしたが、
上高地にまで
中国人観光客が押し寄せてきたのは、
本当に驚きました。
それだけ多くの観光客が
海外から訪れている証しですが、
中国人パワーに圧倒されます。

翌朝はホテルの和食レストランで朝食。
上高地帝国ホテルの朝定食の和膳は絶品で、
ごはんにはお粥を注文して、
これが本当においしい。
おひつをあけるとお粥がつやつやして、
これ以上はないという美味しさです。
その後は大正池方面を散策し、
ラウンジでティータイム。
長女オススメの帝国ホテルの
カマンベールチーズケーキを食べましたが、
これもまた美味しかった。

大正池↑↓

その日、部屋窓から玄関を見下ろすと、
なにやら大勢の取材陣がいました。
アメリカの駐日大使が宿泊しているという。
部屋を出ると偶然にも
大使のご家族に出逢いました。
大使は帽子をかぶって短パンという軽装で、
子供や奥さんを連れて歩いていました。
このときの大使の上高地訪問は、
表向きは東日本大震災で被災し、
急減した海外の観光客に
日本の安全性をアピールするため、

ということでしたが、
それよりも週末を家族とともに過ごすこと、
その方が大事だったことでしょう。
大使にとって休日の過ごし方も仕事のうち。
ご苦労さまです。

帝国ホテルのラウンジ

2018.8.3

銀座発

銀ブラという言葉は、
今では殆んど死語になって、
こんな言葉を使う人もいません。
文字通り銀座をぶらぶら歩くことで、
かつては最先端の街・銀座を歩くことが、
ちょっとしたステータスで、
お洒落な人の定番でした。

6年ほど前には、
銀座4丁目交差点の三越が増床して
リニューアルオープン。
過渡期とされた銀座通りにも
新しい動きが出てきました。
この付近にはユニクロもできて、
高級志向を売りにした銀座にしては、
ちょっと不釣合いでは、
と思いましたが、
店内を覗けば他店舗とは一線を画して
銀座なりの高級感を前面に押し出していました。

僕はぶらぶら歩くことが好きで、
かつては一人で目的もなく
歩くことも珍しくありませんでした。
真っ先に行くのは本屋かレコード屋(CD店)。
これさえあれば十分に暇潰しができます。
そこには音の世界、
目に触れることのできる
しい世界があって、
観ているだけで
幸せな気分に浸ることができました。

その当時、拠点となっていたのは渋谷。
大学への経由地ということもあって
親近感があったし、
とりわけ公園通り~代々木公園~
そして、原宿へ続く道はお気に入りでした。
今はその当時の面影は薄くなりました。
あの頃は人通りもひっそりとして、
公園通りも今ほど知名度はなく、
知る人ぞ知る若者の街という雰囲気でした。
そして二番手は新宿、
三番手に銀座。
こうした街も渋谷ほどではありませんが、
時折、足を運びました。
そして赤坂から近い六本木、
大学への途中駅にもなっている自由が丘。
それらもエリアの開拓を兼ねて珈琲店を巡りました。

銀座・初めて物語Ⅰ

銀座は親近感の点では、
ちょっと薄い。
夏休みの誕生日を控えたある日。
東京にいても
誰もお祝いしてくれる人もいない。
ちょうど日曜日で、
ふらっと足を延ばした銀座に
交通整理をする警官がたくさんいて、
車を停止する交通遮断用のコーンが
いくつも並んでいました。
暑い陽射しの射す夏の日の昼。
その日は夏休みの日曜日ということもあったのでしょう、
人通りはいつもよりも多く、
歩道には溢れんばかりの人で埋め尽くされていました。
やがて車の通行が全面ストップ。
周りにいる人はその瞬間、
車が通らない繁華街の大通りを見て、
おそるおそる車道の中に入りはじめました。
それが銀座で初めての、
歩行者天国の日。
1970年8月2日の出来事でした――

初めての歩行者天国

銀座・初めて物語Ⅱ

1年後だったと思う。
やはり銀座4丁目の、
それも三越の1階の正面に、
ヘンな看板を立てた店があった。
ハンバーガー?!
あのポパイで有名なハンバーガーは
余り知られていなくて、
アメリカ産の風変わりな食べ物という感じがありました。
ハンバーガーはポパイの世界。
ホウレン草とハンバーガーと、
二つの関係がよくわからないが、
とにかく異国の食べ物でした。
しかも銀座4丁目といえば、
日本一地価の高い所で、
そんなところにスタンド式の店ができて
大勢の人が並んでいました。
やはり夏休みのこと。
道行く人は珍しげに店を覗いている。
周りを見れば、
その店で買ったらしいものを食べながら歩いている。
マクドナルド??それなに??
それにしても行儀が悪い!
立ち食いは慎むべき行儀の悪い振る舞いで、
分別ある大人ならしてはいけないこと。
それはそれとして、
見ているほど行列は伸びる。
珍しいもの好きの若者は飛びつく。
それが日本のマクドナルド1号店でした。

マクドナルド1号店

そのときのマクドナルドは、
スタンドがあるだけの店で、
坐って食べる席もない。
その一群に加わりました。
そして手にしたハンバーガ—とポテト。
値段は覚えていませんが、
ポテトのなんとデッカイこと!!
長さ20cmほどはあったと思う。
アメリカ産だと思った。
マクドナルドのハンバーガーは、
物珍しくて、
とても新鮮で、
アメリカの匂いがしました。

※ ※ ※

ところで昨夜は
火星が地球に大接近し、
南東の空に赤い星が、
ひときわ明るく輝いていました。
地球と火星ーー。
兄弟のような関係ですが、
互いの公転の関係で、
今回は15年振りの大接近とのことで
通常の10倍ほどの
大きさに見えるそうです。

2018.8.1

軽井沢発

休日の優雅なひとときの過ごし方――
それには一杯のおいしい珈琲と、
心を癒す場所があればいい。
学生時代、珈琲は豆を挽いて
ドリップ式で飲むのがいちばんいい、
とものの本にあって、
それからは手動式のミルを買い、
豆を挽き、
漉し布で熱い湯を挿して飲んでいました。
これをネルドリップ式と言い、
味も薫りもベスト。
珈琲専門店はそんなこだわりの店も多い。
そうした風流は今も続いて、
週末の朝はミルで豆を挽いて、
お気に入りの珈琲メーカーで珈琲を淹れる。
学生時代に買ったミルは、
ゴリゴリと豆を挽く音がして、
それが耳に心地よい。
美味しい珈琲は、
美味しい音がして、
カップに熱い珈琲を注げば、
上質の時間が流れてゆく。

喫茶店で珈琲を飲む――。
そんな時間が好きで、
学生時代はそれを趣味にしていましたが、
それは今も続いています。
しかし珈琲専門店で飲む珈琲だけが、
珈琲じゃない。
柔らかい陽射しのさす心地よい日には、
ウッドデッキに椅子を並べて、
風に吹かれながら、
ゆったりと飲むのもいい。
幸いなことにというか、
それが気に入って建てた家ですが、
我が家には広めのウッドデッキがあり、
天気の良い昼下がりには、
デッキで珈琲を飲むことができる。

風流を好む、
風雅な時間を愉しむーー。
たとえ財布の中味は空っぽでも、
見栄だけは張って生きていきたい。

そんなことを考えていたら、
小学生の頃に訪れた
軽井沢の保養所を思い出しました。
あの頃はよく
会社の保養所を利用しました。

その中でも軽井沢が印象に残ります。
保養所そのものは立派ではないが、
軽井沢という別荘地の雰囲気が心地よい。
今は夏になれば
大勢の観光客が押し寄せて、

軽井沢銀座は人の波で溢れ返ります。
しかしその当時は、
別荘地の雰囲気を色濃く残して
落葉松の林を自転車に乗って
爽快に走り抜けたものでした。
通りに面して
見るからに裕福なそうな別荘には、
広い庭に白樺の木立があり、
その片隅には、
夜の闇を青く照らす誘蛾灯があり、
闇が広がるほど
軽井沢は深い霧に包まれて、
夏でも涼しく、
夕闇が迫る頃には、
セーターを羽織るほどの冷気が押し寄せる。

そんな夜、
旧軽に繰り出す。
昼間の喧騒がやわらいで街の中も静か。
夏だけ開く店が軒を並べて
昼の喧騒とは対照的な
高原の冷気に包まれた
別荘地の香りが漂います。
僕らは白い陶器に絵付けをして、
自分だけのオリジナルの皿や器を作る。
軽井沢の民芸品を扱う店。
信州特産の瓶詰めの漬物を売る店や、
通りの奥まった所には、
軽井沢をこよなく愛した作家が泊まった宿がある。

軽井沢に縁の深い作家として
堀辰雄を思い浮かべます。
彼の作品の中に
「美しい村」があり、
昭和10年頃の軽井沢を舞台に
自らの体験をもとにして、
別荘地軽井沢の風景が、
詩情豊かに描かれ、

かつての軽井沢を彷彿とさせる
美しい風景がありました。
とりわけ冒頭の部分が美しい。
ーー今月の初めから僕は

当地に滞在しております。
とはじまり、
初夏の軽井沢の風景と、
想いを寄せる女性への思慕を、
手紙に託して綴っていきます。

詩人・北原白秋は「落葉松」という詩で、
軽井沢の情景を一遍の詩に託しています。

落葉松の林を出でて、
落葉松の林を入りぬ。
落葉松の林に入りて、
また細く道は続けり。・・・・

その情景描写は、
美しくも哀惜の情に満ちて
軽井沢にはそんな情景がよく似合う
静かで美しい村でしたが、
それも今は昔・・。
夏になれば旧軽には賑々しい街が出現し、
ひと夏限りの街が生まれます。

軽井沢には当時も今も、
詩情豊かな世界があるのでしょうか。

 

 

 

2018.7.18

長崎旅情

10年以上前になりますが、
藤木直人&菅野美穂の主演で
「愛し君へ」というドラマがありました。
ベーチェット病という難病を抱えて、
やがて失明の運命を辿るというドラマでしたが、
その舞台のひとつが長崎でした。
主人公の母親が住んでいる実家は長崎。
車が通れない狭い急な坂道を、
喘ぐように歩いて昇るシーンがありました。
その風景と同じ坂の上に
友人の実家があります。
以前は我が家の近所に住んでいましたが、
今は長崎の実家に戻りました。
長崎は坂の多い町。
彼の実家も見下ろせば、
眼下に町が広がっている。
友人夫婦とは一緒に旅行に出かけ、
週末は互いの家を行き来して、
酒を酌み交わしていましたが、
あるとき年末を前に、
――正月に長崎に来ないか、と言う。
長女は幼稚園生でした。
長崎は2度ほど行きましたが、
好きな街のひとつ。
旅心をそそられて
彼の車に同乗することにしました。
友人夫婦と車1台で長崎まで片道1500kmの旅。
長崎まで殆んど高速道路でしたが、
それを15時間ほどで走り切りました。
長崎に到着しても、
長崎の住人は観光には興味なし。
小さい頃から見慣れた風景に
旅情をそそるものは何もないのでしょう。
地元だからね・・、と。
そんなわけで
今は世界遺産に登録されたグラバー邸や
大浦天主堂などを子供たちと歩きました。
丘の上のグラバー園は、
外人居留地を背に、
眼下には長崎湾が弧を描いて
寄り添うように街がのびやかに広がっています。
いかにも旅情を誘う風景でした。

グラバー邸
大浦天主堂

長崎の思い出は、
観光よりも食にまつわる思い出があります。

① 長崎ちゃんぽん&かた焼きそば

長崎名物にかた焼きそば(皿うどん)がある。
関東の軟らかい麺ではなく、
大皿に固い焼きそばが山盛りで盛られ、
それをみんなで突っ付きあう。
これが旨い!
食べるほど麺がほどよくしなって味が染み、
舌に馴染んだ柔らかい焼きそばよりも
歯ごたえがあった。
しかも味がいい。
固い焼きそばは小さい頃、
この辺りでも食べていました、
それとはまた違う。
長崎の家主が言うには、
食材選びが大事!とのこと。
家に帰ってから
長崎から箱詰めで送ってもらったことがある。
そして長崎ちゃんぽん。
この麺は長崎中華街が本場で、
此処にも出向いて食しました。

② 正月料理と鯨――

所変われば品変わる。
長崎のおせち料理は大作り。
関東の雑煮は塩味であっさりして、
椀の具にみつばなどが添えられていますが、
長崎は大椀に大作りの食材が盛られて、
いかにも豪快でした。
それ以上に食欲をそそられたのが「鯨」。
食膳には二種類の鯨料理が並んでいましたが、
なんともいえない食感で、
それまで食べたことのない最高の味でした。
食べると病みつきになります。
当時も商業捕鯨は禁止されていましたが、
調査用として僅かに捕獲が許されてるんでしょう。
長崎市民の正月の食膳を飾っていました。
反捕鯨団体が知れば大騒ぎになりそうですが、
こんな旨いものを食べない手はない、
と今でも思うのです。
鯨は絶滅危惧種ではない。
漁獲量を守って捕鯨を再開してほしい。
あの鯨の味が今も恋しい、
と思っています。
彼の家には5日ほどお世話になりました。

長崎の鯨料理

大晦日の夜も深まり、
彼が背中を突っつく。
ちょっと出よう、と言いながら、
大晦日も営業しているスナックで
正月の除夜の鐘を聴き、
翌日は長崎くんちを見物した記憶があります。
長崎では「くんち」と呼ばれる出し物が繰り出す。
中国風の竜を模った出し物を、
大勢の人が上へ下へと担いで練り歩く。
人がそれを取り囲んで、
街は賑やかに正月を迎えるのです。
二度と味わうことのできない、
長崎の正月を愉しむことができました。

長崎くんち

昼はオランダ村を訪ね、
グラバー亭から長崎湾を見下ろし、
大浦天主堂や浦上教会などを見てきました。

彼の姉夫婦に会い、
親戚の家にも出向きました。
彼の姉はバイオリニスト。
オーストリアでバイオリンを学び、
その後は楽団で演奏して、
その傍らで個人レッスンも手掛けている。
姉は子供の頃、
さだまさしと同じ個人教師のもとで、
バイオリンのレッスンを受けていたと言います。
しかし、その当時の佐田を知る彼は、
――サダは嫌いだ!、
――彼は落ちこぼれ!と言います
確かに彼は、
バイオリン奏者としてはモノになりませんでしたが、
ミュージシャンとしては成功した。
ともあれ長崎紀行は、
色々なことを経験しました。

2018.6.25

遥かなる尾瀬

夏が来れば思い出す、
はるかな尾瀬~♪♪

という歌詞ではじまる「夏の思い出」という曲がありますが、かつてはこの歌に尾瀬の風景を重ねて、不思議なノスタルジーを感じたものでした。
尾瀬との出会いというか、尾瀬を知ったのは小学5年生。その当時小学校で特別授業として、体育館で尾瀬の四季を綴る映画が上映され、その映像の美しさ、尾瀬の美しさに目を奪われました。新緑に映える春や、水芭蕉やニッコウキスゲ、ワタスゲの花が湿原を埋め尽くす初夏から夏。四季それぞれに美しい風景があり、なによりも映像を通して高原の清々しさや頬を撫でる風のさわやかさが伝わってきて、尾瀬はいつしか憧れの地になりました。
それでも尾瀬は遥か遠い空の下。車でなければ行くことは難しいし、日帰りでは帰れない。そんなわけで、尾瀬に初めて訪れたのは就職後のことでした。
尾瀬は、栃木県の鳩待峠から入るルート、福島県の沼山峠から入るルート、そして新潟県から入るルートの3通りあり、初めての尾瀬は盆休みを利用して沼山峠から入山しました。前日の夜は、入山口にある桧枝岐村の民宿に泊まりましたが、そのときに食べた蕎麦が本当に美味しかった。もともとこの地方は桧枝岐蕎麦の名産地。素朴で、歯ごたえも味も申し分なく、美味なることこの上なし。もう一度、あの蕎麦が食べたいと思うのです。
出発は早朝。夏とはいえ朝陽も射さない4時頃だと思う。懐中電灯を照らしながら、リュックとテントを担いでのトレッキング。重い荷物で山の斜面もきつい。しかし、陽が昇る頃の尾瀬ヶ原の風景は、本当に気持ちのよいものでした。高原のさわやかな冷気に包まれて、それから二日間、トレッキングを愉しむことができました。

送り火

その帰り道。思わぬ風景に出会いました。沼山峠を起点にして山あいの道をひた走る。ちょうど夕暮れ時。福島の山中のとある町に向かうと、その先に黄色い炎が見える。家々の軒先や門の前でちらちらと火を炊いて、周りに子供がいる。そんな不思議な光景が送り火だと知りました。この辺りでは、送り火も、灯篭流しの風習も殆んど途絶えましたが、山の中の町に行けば、今でもこうした、迎え火、送り火の風習が残っている。迎え火は亡くなった人を弔う行事。自分の家に間違わずに辿り着けるようにと門前に火を灯してお迎えします。お盆に提灯を飾るのは、そうした風習の名残。昔懐かしいそうした行事が長い間残っているは、残された人たちが亡くなった人を想い、先祖を敬う気持ちがあるからなのでしょう。古い時代の風習とはいえ、そんな風習に、人の心の哀惜の情が込められています。
2011年の東日本大震災のときは、多くの人が震災や津波で亡くなり、家族や、友人、仲間を弔いました。この辺りは地震の被害で亡くなった人は僅かですが、毎年3月11日には、海に面した駅舎で北に向かって静かに手を合わせ、祈りを捧げる人の姿があります。その一方で、新聞では被災した陸前高田の松が、放射能が心配だからと京都の大文字焼きから外されるというニュースが載っていたことがありました。大文字焼きも、亡くなった人を弔う行事。過剰反応で、人の想いを踏みにじる行為。その浅ましさがなんとも悲しいと感じました。もっともこれも多くの人の非難を浴びて前言を撤回。大文字焼きで、陸前高田の松は受け入れられることになりましたが、やっぱり放射能が、と結局は送り火に使われることはありませんでした。

話しが逸れました。
その後も尾瀬を訪れましたが、いずれも鳩待峠から。この方が近いし、便利だから。とは言っても今は入山制限があるらしく、シーズンになれば、やや不便を強いられるかも知れません。台風後に子供を連れて、友人夫婦と行ったこともあるし、別の家族連れに同行したこともありました。尾瀬は4度ほど行きましたが、いつも尾瀬は、私たちを快く出迎えてくれると感じています。尾瀬の空気は清々しい。信州の蓼科高原も、日光の戦場ヶ原も、裏磐梯高原も素晴らしいですが、歩きながら高原の風を感じてのトレッキングはまた格別です。毎年来たいねぇ、なんて話したこともありますが、最近はやや足も遠のいています。尾瀬の風景は少しずつ思い出の風景として記憶の中にとどめられてしまうのでしょうか。

2018.6.1

沖縄の旅

長女が生まれる前の8月、
連休を利用して沖縄に行きました。
燦々と降り注ぐ陽の光と
青い珊瑚礁の海――。
そんな風景に憧れて旅立った沖縄でしたが、
沖縄本島は青い海が意外に少なくて、
がっかりした記憶があります。
我々が期待していた南太平洋の、
あの透き通るようなエメラルドグリーンの海――、
それは西表島や石垣島など離島の、
極上の風景であるらしい。
それでも沖縄は、
日本ではあるけれども、
日本ではないような
エキゾチックな雰囲気がありました。
家並みはどこか異国の風景を思わせ、
沖縄の人たちの顔は浅黒く彫りが深い。
裏通りに入れば、
白い漆喰がむきだしの屋根瓦に、
沖縄独特の魔よけ「シーサー」が見える。
沖縄本島には米軍基地も点在し、
街並みに英文表示の看板があって、
外人向けの店も多い。
沖縄は日本であって、
日本とはほんの少し違う異郷の地。
旅はいつもそうした発見があり、
さまざまな驚きと感動に出逢います。

海水浴をした万座ビーチ

そのときは3泊だったと思う。
リゾートホテルの沖縄ヒルトンに2泊し、
那覇市内の都ホテルに1泊。
旅先では心なごむ風景に出会いました。
初日は 那覇空港に到着して、
タクシーで沖縄ヒルトンに向かう。
そのタクシー料金が安い。
レンタカーもまた安かった。
沖縄本島には鉄道がなく、
当時は出来たばかりの高速道路が1本だけ。
だからこそタクシーも安いのかもしれない。

二日目には、
レンタカーで本島を1周しましたが、
その途上では有名なリゾート海岸に立ち寄り
泳いで、そして甲羅干しをしました。
海辺は夏も真っ盛りだというのに人影は少なく
しばし砂浜を独占しました。
しかしその夜、背中や肩が火のように熱い。
殆ど燃えるように熱くて、
寝るどころではなかった。
そんな話をタクシーの運転手に話したら、
――そりゃそうだよ、
沖縄の陽射しは違う。
島の連中は昼間は泳いだりしないよ、
と言われてしまった。
トホホの手くれの教訓でしたが。

沖縄のホテルの前で、
ヘンなものを見かけました。
それは、巨大なかたつむり。
一瞬、アンモナイトの化石が
沖縄に出現したのかと思いましたが、
沖縄には沖縄独特の生き物が

巨大なカタツムリ アフリカマイマイ

たくさんいるらしい。
畑の中にぽつんといて
体長は15cmほどあり
アフリカマイマイというらしい。
この巨大かたつむりも
エスカルゴとして食用にするらしいのです。

沖縄の人の特徴は、
彫が深くて浅黒い顔。
鹿児島でも同じような顔立ちの人を見かけましたが、
最近の沖縄出身の人を思い浮かべると、
それは違うんじゃないかと思う。
夏川りみや宮里藍あたりは、
いかにもという感じですが、
新垣結衣、黒木メイサ、仲間由紀恵、二階堂ふみ、
比嘉愛未、知花くらら、となると
沖縄の人の顔立ちに共通項があるのだろうか
と考えてしまいます。
沖縄もまた日本。
海を越えた遠い島国の時代は終わりました。
野球だって、スポーツだって強いし、
日本の中の日本です。
2018.5.11

 

小京都/妻籠・馬籠・奈良井宿・郡上八幡

◆中山道/妻籠・馬篭・奈良井宿

木曽路はすべて山の中である――――、
との書き出しで
島崎藤村の「夜明け前」がはじまる。
藤村の出身は馬籠。
中仙道・木曽路11宿の一つで、
妻籠と並んで木曽の山懐に抱かれた
江戸時代の宿場町です。
ひと頃は人通りも絶えた古い街道で、
妻籠宿や馬籠宿は崩壊寸前の町でした。
しかし村興しの一環として、
この古い町並みを復元しようと町民が立ち上がり、
見事にそれを為し遂げました。
新聞で紹介されたことがありましたが、
妻籠は古い宿場町の風景を再現して、
訪れる人が急増。
今はその頃より観光客は減ったものの、
最近は外人観光客が大勢訪れているようようです。
サムライ時代のこんな風景に、
日本のノスタルジアを感じるらしい。
車で妻籠から馬籠に訪れたことがあります。
夜通し走って夜明ごろに妻籠に到着。
朝陽が差し込んで
旅篭が並ぶ石畳の街を歩きました。
人通りのない通りはまるで映画のセットで
タイムスリップしたような感覚でした。
古い町並みには
暮らしの中で営まれてきた生活の知恵や、
人の知恵が作り上げた美しい風景があります。
格子戸の美しさや長い軒の連なる家並み、
そして旅篭の二階から見下ろすのどかな人の語らい。
そんなものが妙に心にひびき、
心なごむ旅情を誘います。

妻籠
馬籠
奈良井宿

◆郡上八幡

郡上八幡も掘割の風景が美しい。
僕自身は行ったことはありませんが、
いつか訪れたいと思う。
郡上八幡にも掘割がありますが、
そこに水が流れ、
水のある風景は、
その地に暮らす人の知恵が活かされ、
それが生活に馴染む
美しい風景を作りあげています。
掘割の下手には
川の流れを堰き止める仕切りがあり、
煮炊きや洗い物に使われ、
使い終われば外されて、
誰でもいつでも使うことができる。
そんな暮らしのある風景を、
郡上八幡の旅番組で紹介していました。
暮らしのある風景ーー。
そうした風景の中で毎年、
お盆には郡上踊りが繰り広げられる。
4日にわたり夜通し躍る祭りで、
いつもはひっそりした郡上八幡も、
この日ばかりはスポットライトを浴びて全国区の町。
25万人が訪れるという。
美しい風景には、美しい行事があり、
それが故郷の忘れがたい匂いを
感じさせてくれます。

郡上八幡

◆飛騨高山

飛騨高山が好きで何度も足を運びました。
造り酒屋の多いこの町は、
歴史に残る逸話こそありませんが、
人々の暮らしの中に
歴史の確かな手応えを感じます。
古くどっしりとした建物に入ると、
そこは少し薄暗く、
天井には重厚な梁があって、
いろりが吊るされている。
それは一見、
時代から取り残された風景ですが、
そこを訪れる旅人にとっては
なんとも懐かしい生活の匂いを感じます。
飛騨高山には、
そこにしかない風景があります。
少し足を延ばせば郡上八幡があり、
合掌造りで有名な世界遺産の飛騨白川郷があります。
合掌造りもまた生活の智恵が生んだ風景。
天に突き抜けるほどの高い建物に、
がっしりした骨組みが組まれ、
急勾配の萱葺きの屋根がある。
そこでは幾世代もの家族が
今も肩を寄せ合うように暮らしています。
そんな風景に新鮮な感動を覚えます。

飛騨高山

金沢 東茶屋

2018.4.25