青春邂逅

アルバムの写真は、
時の流れとともに色褪せ、
やがて記憶の片隅に埋もれて行く。
けれどその中にあっても、
いつまでも鮮明に、
そして鮮烈に残るワンシーンがある。
思い出とともに蘇る、
ワンシーン――
その印象が、
鮮やかであればあるほど
心の中にセピア色の陰影を
深くしっかり刻み込んでゆく。
僕にとって、
セピア色の思い出は、
いくつあるのだろう。

5月ーーー
春の陽射しが心地よい季節――
我が家の庭も花が咲き乱れて春爛漫。
今頃の季節は、
色鮮やかなチューリップに、
ムスカリ、ラベンダーやクレマチスなど
紫の花が彩りを添え
新緑が眩い季節を迎えます。
生垣のドウダンツツジは、
萌黄色の若芽を吹き出し、
可憐な白い花を付けて
今や春は真っ盛り。
楓も新緑の季節を迎えました。
それとともにどこからともなく
つがいの鳥がやってきて、
気忙しく羽ばたいて、
愉しげに囀ります。
我が家の楓は止まり木らしい。
春はこうして色々な鳥がやってきて、
梢の上で羽を体めます。
春や春、いざ酔う春――
春は優しく、そして愉しい。
春は恋の季節でもある。
冬ごもりの季節を終えて、
町にも新鮮な息吹が満ち溢れる。
入学式、新学期に入社式。
新しい門出に夢が膨らむ瞬間。
そんなとき出逢いもある。

こんなこともありました。
新年度を迎えた4月のこと。
いつもの時間の、
いつもの電車。
通学時間の道すがら
途中駅で乗ってくる女の子。
その瞬間、
さわやかな風が吹いて
新入生かな・・
と思いながら、
胸をときめかせたものでした。
友人も次の駅から乗って、
彼が流し目で呟いた。
ーーもしかして好きなんじゃないの・・。
けれどその後も
声をかけることなく自然消滅。
ほんの一瞬に咲いた恋の仇花で
淡い想いが胸をかすめる。

思い出のワンシーン――
振り返れば
いくつかの風景が甦り、
そのひとつひとつに
そのときどきの想いが重なる。
人生の教訓であり、
心震わす感動であり、
切ない想いもあるだろう。
その風景に想いを託して、
思い出の一齣を振り返る。

時には友人のお節介に
しゃしゃり出たこともある。
大学のクラスメートで、
福岡の有名進学校出身の彼は、
ナイスガイなのにシャイ。
あるパーティで女の子に出逢い、
ひと目ぼれしたという。
しかし彼女の住まいも、
彼女の電話も、
なにもわからないまま、
その場を後にしたという。
でもその子のことが忘れられず
西武線の豊島園から通っているという、
ただひとつを手がかりに
豊島園駅で待つことにした。
その日は昼頃からタ方まで
二人で駅のホームで待ったが、
彼女の姿を見つけることができず
諦めることになった。

そんな思い出も、
彼にとっては苦味を伴う
懐かしいものになるのだろう。
そんな時代の、
青春という名の心の鼓動。
その鼓動のひびきが、
ときにほろ苦く、
ときに切なく、
ときに優しい。
そんな時代を経て、
大人になって、
昔を懐かしんでいる。
そして、
あれが青春だったなと振り返る。

2018.5.14

戦火の地の想い

以前「ウルルン滞在記」という番組があって、
こんな場面がありました。
長い内戦で戦火の傷跡深いカンボジア。
今なお多くの地雷が地面を這い、
それを撤去するためには
100年はかかるだろうといわれ、
未だに地雷を踏んで、
手足を失い、
命を落とす人も少なくない。
しかしそれは誰かが撤去しなくてはならない。
リポーターが訪れたのは、
そんなカンボジアの、
両親と娘二人のいる家族でした。
父親は地雷を撤去する仕事をして、
娘は父親がその仕事に出るとき、
父親の身を案じて言葉を失う。
しかし最後に父親が、
私はこの仕事をやめようと思う、
と言ったとき、
もう心配しなくていいんだね、
と言いながら
溢れる涙を止めることが出来ませんでした。
それを見ながら、
これが家族への思いやりだろうと感じました。

彼らはどこにでもある家族のひとつかもしれない。
しかしそれぞれの家族には、
それぞれの風景があり、
ありふれてはいるけれども、
大切にしているものがある。
そんなありふれたものでも、
それを壊す権利は誰にもありはしない。

東北大震災――。
7年の歳月を経てもなお、
心に傷をおう人たちがいる。
震災で家族や友人を失った人にとってはなおのこと、
癒えることのない悲しみを背負い続ける。
震災のその日、
彼らは家族の身を案じ、
とにかく無事でいてほしいと願い、
必死で家族の姿を追い求めていた。
けれど時を経てそれも諦めと悲しみに変わる。
テレビのドキュメンタリー番組では、
そうした家族の姿を追いながら
取材を続けていた。
そうした中でNHKでは、
震災の特集が組まれ、
少女が、津波に呑み込まれたふるさとを見ながら
――おかぁさん!おかぁさん!、
と泣き叫ぶ映像が流れて、
その姿に胸が詰まる思いがしました。
この辺りでも被害はありましたが、
家族はみんな無事で、
いずれは以前の生活を取り戻すことができる。
けれど被災地の人たちは、
がれきと泥に埋もれたふるさとを見ながら、
それでも生きていくしかない。
失われた命は戻らない。
しかし、気をとり直し悲しみを乗り越えて、
頑張っていく気概は残されている。

そんな衝撃と悲しみの日本でしたが、
少しずつ復旧や復興が進んで、
元気を取り戻しつつある。
それが日本という国の美しさと強さでしょう。
かつて日本は10万人の命が失われた
関東大震災から立ち直り、
第二次大戦の焦土の中を
乗り越えてきた逞しさがありますから。
2018.5.6

池井戸潤の世界

企業の中でどう生きるかーー
これは企業で生きている人間が、
企業にいる限り問い続けてゆく命題でしょう。
そうした企業モノ
というより、
銀行の内幕モノを書いている作家として
池井戸潤がいる。
池井戸潤は今売り出し中の作家ですが、
元三菱銀行の銀行マンという経歴を持つ。
彼の著作はドラマ化されて、
大ヒットした半沢直樹シリーズのほかに、
「花咲舞が黙っていない」や
「ようこそ、我が家へ」、
「ルーズベルトゲーム」など

数多くの作品がドラマの原作として取り上げられている。
彼は銀行マンという経験をもつだけあって
銀行の裏事情に詳しい。
そんな作家が描く小説だから
実際の銀行もそうであるに違いない、
というのはとんでもない間違い。
小生は銀行の知人がおり、
近しい人に元三菱銀行の銀行マンもいる。
彼に半沢直樹のドラマを見ましたかと問うと、
見た、面白かった、との後に、
しかし、ありえない、

との答えが返ってきた。
半沢直樹のような人物は銀行ではありえない。
銀行には銀行員としての取り組み方、
スタイルがあると言う。
小説はあくまでも虚構の世界。
銀行にこんな人間がいたらと思う願望が、
こうした虚構の世界を作り出したのかも知れないが、
銀行の内部事情を知る人にとっては、
とても不自然で、
ありえない人物と映るようです。

銀行の人事評価は基本的に減点法。
100点満点を評価基準として、
課せられたノルマを実現してミスをしないこと。
こうした姿勢が必要だといわれている。
例えば花咲舞のドラマでは、
支店長が行員を並べて叱り飛ばしている場面があった。
俺がお膳立てした融資は必ず取れ。
窓口営業に対しては、
お前らにプラスは期待していない。
だがミスは絶対にするな。
そしてドラマの中では
何度も「✖」を付けるとの言葉が出てくる。
要は「失敗してもいい。
それを学びの糧として次で頑張れ」は、

通用しないらしい。
銀行では一度ミスをして「✖」が付けば、
そこから這い出すことが難しい。
一度のミスが命とりになり、
片道切符で追放されることもあるという。
だからミスをしないように、
と石橋を叩いて渡る。
言い換えれば、
銀行は挑戦者が生まれにくい素地があるのかもしれない。
上司に正面切って盾突く人もいないし、
横並びで上司の顔色を伺う。

しかし思うのです、
それでいいのかと。
銀行と一般企業とは違うが、
企業が末永く存続し活性化していくには、
挑戦者が誕生する風土、
それを活かす風通しのよい職場作りが必要でしょう。
言い争いや喧嘩ではなく、
健全な論争と自由闊達に意見を述べ合う環境。
そして、良いものを良いとして、
誤っていることは誤っている、
と指摘しあうことのできる職場。
それが大事でしょう。

2018.5.4

日本と韓国の教育事情

父が、いずれは誰でも大学に入ることができるようになる。そのときは大学を選ばなければ、と話していたことがあります。随分前のことですが、思い返せばそのときすでに大学全入時代を予想していたわけです。
誰でも大学に入ることができる。いいじゃないか、何が問題かとも思いますが、大学は出たけれど、と職にあぶれる人が出るということを意味している。昨年こそ大卒就職率は97.6%と過去最高を記録しましたが、氷河期と言われた年は就職率も悪化。定職に就けない大卒フリーターがあふれたことがありました。今は景気がやや好転していますが、いつなんどき氷河期の再来となるやもしれません。
大学は出たけれど・・。肩書だけの大卒が通用する時代は終わりました。学歴も質を求められる時代になります。そのとき自分をどんな風に磨き、どんな風に売り込んでいくのか、いかにアピールするのか。ただなんとなく大学生活を過ごした人には耳に痛い時代で、就活で今より苦労する時代がきます。

韓国の教育事情はさらに深刻です。韓国は日本より熾烈な学歴社会。韓国の高校進学率はほぼ100%で、これは日本と変わりませんが、大学の進学率は日本の52%に対して64%と、大学進学率で世界トップレベルの高学歴社会です。そしてさらには一流大学への志向が極度に強く、それがその後の就職にも大きく影響しています。それは韓国の経済事情を色濃く反映しています。韓国は日本と同様に資源のない輸出国。そして、ごく一部の世界企業、サムソンやLGといった企業が韓国経済を支える技術志向の強い国です。今、世界では関税を撤廃して、輸出自由化を進める動きが盛んですが、韓国は諸手をあげて賛成。それは自由化が進めば輸出志向の国は有利だから。サムソンなどのIT企業は世界的覇権を進めており、優秀な技術者にはアメリカ企業のトップ経営者にも劣らない高収入が約束されて、20代で5000万円ともいわれています。世界を席巻する技術力を磨くには、それ位の優遇や一極集中が必要だというわけです。しかし他方で就職率は、進学率が進むほど厳しくなる。少し前のデータでは、大学新卒の10人に4人は就職できないという現実があります。雇用率を考えずに大学ばかり増やした結果といわれています。
韓国の教育の実態はどうか。それを知るエピソードには事欠きません。日本でも習い事をする子供は珍しくありませんが、韓国では、ピアノ、水泳、テコンドーなど、一人で3つ4つの習い事をするのは普通で、勉強にも熱心。自習室で夜9時まで勉強して、その合間を縫って塾にも通う。そうした事情を加速させる原因は学校側にもあるらしく、先生への付け届けは当たり前。当人たちは決して良いことだとは思っていませんが、自分だけ止めるわけにもいかず、やむにやまれずという事情があるようです。人口の半分がソウルに集中する韓国、そうした教育の過熱ぶりは都市部ほど強く、進学競争は小学校から始まり、進学するほど高くなる。進学率の高い学校に入れるためには引越しも辞さない。それがある種の社会現象となって、高学歴志向の強い人間が集中する新興住宅地も生まれたとありました。大学進学は、韓国の国民にとって重大事。一流大学志向はとどまることを知りません。テレビでもソウル大学の受験風景が流れていましたが、受験生の父兄が大学の前で膝をついて祈る姿が映し出されていました。
そうした韓国の教育熱は、今に始まったことではなく、すでに1970年代から始まりました。当時は高校入試のために中学生の90%が1日4時間以上の課外個人授業を受け、いわゆる「中3病」と呼ばれる精神疾患を患う生徒が1/4に達したというニュースも流れていました。今でも小学生の10人中9人が塾へ通い、7人が算数塾へ通って、算数教育を重視しています。国家が次世代を担う若者に期待するのは科学技術の発展。優秀な人材による技術発展が国を救うと考えられ、そんな国策的な教育熱の国から超エリートが誕生するのも不思議ではありません。それを担う企業も、海外に優秀な人材が流れないように高収入でエリートを囲い込むという図式ができあがっています。

日本はその反面、教育面では韓国から大きく立ち遅れました。ゆとり教育という愚かしい制度。円周率3.14を3にする愚かしさの極みは論外ですが、今、そのツケが回って、ゆとり教育の世代は、そんなことも知らないのと呆れる水準も見られました。韓国では日本のそうした時代にも教育熱は過熱し、日本よりさらに高度な技術立国を目指しています。例えば、ある高校の休憩時間を撮った写真があります。そこには疲れきって床で寝ている生徒や、机に屈伏して爆睡する生徒。それが当たり前だと言います。韓国の高校生は、朝7時半頃には登校して自習し、夜は必ず塾に通い、帰宅9時以降は平均的。生徒は疲れ果てて授業の合間は寝てしまうのです。それがいいか悪いかは別にして、部活で疲れて授業中に寝ている日本の風景とは違います。

日本もうかうかしてはいられない。技術の高度化は、やがては自動車業界におよび、先端産業の分野でも韓国が世界のトップに躍り出る時代が来ます。それは国家存亡の分岐点。韓国にすれば自国の経済を維持するには、それしか残された道はないのですから。しかし日本はTPP対応でも見られるように、農業支援団体を中心に全面自由化には反対の立場をとる。確かに、米や麦といった農産物は大きな打撃を受けるでしょう。日本産は値段では太刀打ちできません。しかし関税撤廃は世界の趨勢です。そうしなければ、日本の企業は韓国や中国に優位な地位を奪われ、やがては衰退の道を辿ることになります。そうした危機的状況の中で、日本は厳しい選択と決断を迫られています。
日本の動向と世界の趨勢。その間に韓国があって、韓国は自国の将来を見据えて、大卒と言う肩書だけで世界の覇権を握ることはできないと考えています。そのためには世界レベルの教育を目指してゆく。それが個々人の豊かさや、国家存亡を救う道に繋がると考えています。韓国は今、日本の先を歩みつつあります。

もっともこれらは、韓国のプラス面に焦点を当てて書いたもの。負の側面にある韓国はさらに厳しい現実があります。そうした負の側面は紙面も足りないので割愛しますが、SNSには、韓国に生まれなくてよかった!との書き込みもありました。

2018.5.2

芸能界に生きる(堀北真紀/比嘉愛未)

◆堀北真希

女優は人を演ずる職業。
素のままの顔を演じて、
本人との落差を感じない人もいるし、
イメージキャラを活かしながら、
素顔とは全く違った顔を見せて、
女優としての魅力を引き出す人もいる。
女優・堀北真紀――。
結婚を機に芸能界を引退したが、
復帰する日も遠くはないように感じる。

掘北真希は変わった。
綺麗になったと思う。
デビュー当時は、
冴えない女の子を光る女性に変えるとの設定で、
ドン臭い少女を演じていたし、
「夕陽ケ丘三丁目」の映画では
集団就職で上京した、
田舎丸出しの冴えない女の子を演じた。
しかし、彼女の素顔は全く違う。
話し始めると
しっかり者のお姉さんという印象で、
ある監督は彼女を、
本当は怖い人と言い、
多くの男性陣に混じった食事会では、
いつまでたっても
注文が決められない男どもに苛立って、
その場を仕切り始めた、
とのエピソードが紹介された。
そんな話を「そうなんですよねぇ」と
笑いながら話していたが、
姉御肌の一面を見た。
黒木メイサとは同じ歳で同じ事務所。
同じ寮に住んでいた事もあって仲がいい。
一見すると黒木メイサがお姉さん的存在で、
堀北真希は妹風。
しかし、実は逆らしい。
黒木メイサの初ライブをこっそり見に行って、
立派になった彼女に見て号泣したという。
保護者のような面をもち、
友人とはいつまでも変わらない付き合いをして、
飾ることをしない。

彼女は、知人のお父さんの
「あいうえお」を大事に生きる、
という教えを守っているという。
「あ=愛、い=命、え=縁、お=恩」。
それを忘れなかったら必ず
「=運」が開けるそうだ。
人の個性は3通り。
生まれ持ったもの、
置かれた環境で与えられるもの、
そして自らの意志で創り上げていくもの。
生まれもったものは容易には変えられない。
しかしその置かれた環境で、
自分の意志で創り上げていくもの。
それが大事で、
人の個性はそれによって創り上げられる。
堀北真希は自分を創り上げる、
強さと賢明さがあった。
女優として復帰を待っている。

–堀北真希

◆比嘉愛未

大分前ですが、
比嘉愛未が新聞の「親父の背中」という欄で
父親について語っていた。
彼女は沖縄出身。
小さい頃から女優になりたいとの夢があった。
しかし、夢が実現するとは限らない。
大事な娘のこととなれば、
親としては大きなリスクを背負わせたくはない。
人間として、女性として、
もっと地道な道を歩いてほしい、
との強い願いもあったのだろう。
彼女は小さい頃から甘えてばかりだったが、
その一方で父親は厳しかった。
高校生になっても門限は7時、
外泊は禁止、
男女交際は一切ご法度。
彼女はそれが面白くない。
思春期になれば好きな人だってできるのに、
なんで私だけという気持ちになった。
それはそうだろう。
それに父親は、
今は学業に専念することが大事、
と答えたという。
愛娘――――。
可愛ければそれだけでちやほやされ、
それなりに人生を愉しむことができるし、
それなりの人生を歩むこともできる。
しかし、愛娘だからこそ、
可愛いだけの女になってほしくない、
との気持ちが親にはある。
彼女が、
ーー女優になりたい。東京に行きたい、
と言ったとき、
父親は猛然と反対して
ーーできるはずがない、
1年で帰ってくるに決まってる、
と言ったが、
彼女は反発して家を飛び出した。
だから親には顔向けできないし、
電話もできない。
早く一人前に、との気持ちでいっぱいだった。
そして1年して
NHKの朝ドラ出演が決まったとき、
それを父親に告げた。
父親は、
ーー今まで何をしてるかわからなかったが、
頑張ったんだな、
と言葉少なに語り、
それを聞いて彼女の眼から
とめどなく涙があふれたそうだ。
父親の想い、自分の夢が報われた瞬間。
そんなものが一瞬に弾けて、
あふれる涙になったのだろう。
そんなところに、
父と娘の心の触れ合う音が聴こえる。
それからは家に帰れば、
父と娘で酒を酌み交わすこともあるという。

比嘉愛未

人生経験を積んだ人の言葉は、
優しさが溢れている。
そうした言葉の中に、
人は愛され、誉められ、
役にたつと感じた時に幸せを感じる、
という言葉があった。
ふと目にした小さな記事の中で、
筆者はその言葉を引き合いに
自らの幸せを語ったが、
ささやかではあるけれども、
日常の中にさりげない幸せを感じて、
いい人生を送っているなと感じさせた。
人には生まれ持ったものがある。
しかしそれだけでなく、
人を形づくるものを活かしながら生きるうちに、
学ぶものがたくさんある。
悲しい想いを経験した人は、
自然に優しさが滲んでくるように思うし、
いじめや辛い経験すれば、
人の痛みがわかる人間になる。
人の中のコントラスト、
内と外、表と裏。
人は多かれ少なかれ相反するものがあって、
そうした中でも人は日々自分が経験し、
体験したことの中から
自らの生き方を学んでいくように思うのです。
2018.4.20

芸能界に生きる(戸田恵梨香)

どんな世界であれ、
その道で一流を目指そうとすれば
一筋縄ではいかないもの。
下世話な話ですが、
僕自身はAKB48が好きではない。
秋葉原の小さなステージで生まれたAKBも、
今や押しも押されもしないトップスター。
それでもなんというか、
彼女たちにとりたてて才能があるわけでもなく、

単にちやほやされたい症候群の、
少女たちの憧れを逆利用した商売にすぎない、
と思ってしまうのです。
年端もいかない少女に
変に浮ついた憧れを抱かせるより、
もっと地に着いた教養を、
なんて口はばったいことを考えてしまう。
タレント、歌手、お笑い芸人、俳優など
芸能界も幅広い業界ですが、
実態は千差万別。
はすっ葉な笑いで日銭を稼ぐ人もいれば、
そうした世界できちんと芸を磨いて、
異彩を放つ人もいる。
とりわけ演劇の世界は、
それが求められているように見える。
ある男優がトーク番組で、
自分の居場所を探す、
という言い方をしていました。

演劇やドラマの世界は競争が熾烈で
メディアに登場する人は
その中のごく一部に過ぎない。
日々新しいスターが誕生して、
それは反面そこから押し出される人も
いるということを意味する。
升の決まった井の中では、
そこで己の存在価値を見出して、
それを周りにアピールしなければならない。
それには演技力を磨き、
魅力的なキャラを
前面に押し出すことが必要になる。
そこで輝き続けることは大変なこと。

菅野美穂は結婚後、
出産して母親役などを演じて
演技がひと皮むけたなと感じた。
かつてはラブストーリー的な
ドラマの出演が多い女優でしたが、
いつまでもそんな役が
転がり込んでくる訳でもない。
そんな中で子育てを経験し、
母親としての愛情や
母としての奥の深さを実感して、
それを演技に活かしているのではないか、
と感じた。
そしてそれが俳優としての、
新たな自分の居場所に
繋がっているように思える。

そうした点で、
金曜夜の「A-Studio」が面白い。
俳優の表の顔と、裏の顔。
演じる姿と、その素顔。
そうした違いが垣間見えて興味深い。

◆戸田恵梨香

番組に戸田恵梨香が出演したことがある。
その当時、戸田恵梨香は23歳。
司会の鶴瓶が、
――まだ23歳なの、と言う。
随分前からテレビに登場していたので、
そんな歳であることが不思議だったらしい。
彼女自身も、
――そうなんですよね、
と相槌を打ちながら、
――私はもっと歳をとって30位になりたい。
そうすれば色々な経験を積んで、
色々なことを学び、
人生が面白くなるように思う、
と語っていた。
しかし若い女性であれば、
歳を重ねることを嫌うもの。
いつまでも若い自分でいたいと思う。
それでもこんな風に語るのは、
人生経験が役者としての年輪を重ね、
演技に深みを感じさせることになるから、
との含みがあるように見える。

彼女が女優を目指したのは、
高校卒業と同時。
16歳で単身、東京に向かう。
彼女としては普通に高校生になって
大学に入りたいとの気持ちもあって
そうした葛藤との戦いの日々であったらしい。
しかしそれを後押ししたのは父親。
彼女の兄弟は3人。
6歳年上の兄と6歳年下の妹。
父親はそれぞれの子供を見極め、
彼らに相応しい道を歩ませようと決めていた。
兄は灘高から神戸大卒。
父は娘を見て、
役者があっている、
役者の道を歩ませようと決めた。

頑固一徹の父親で、
学歴は必ずしも必要ではない、
人生で必要なことは基本的な教養だと言い、
人間として身につけなければならないことは、
全部俺が教えてやると諭して、
彼女の迷いを振り切った。
そして言う。
その人間に才能があれば、
人はその才能に金を払う、と。
彼女自身は今では女優業を天職としながらも、
父親の教育にかなり反発したらしい。
彼女は高校を卒業していない。
父親に会えば教育のことで噛み付き、
いつも衝突していた。
――お父さんの教育は間違ってる。
それでお母さんだって、
お兄さんだって、
妹だって傷ついているかもしれないのよ、
と言うが父親は憮然として、
――これでいい、間違ってない、
と呟いた。
その道で光りを放つには、
なにかしらの威光を背にして輝く姿もあるが、
無理強いのように背中を押して
真直ぐに進ませる道があるのかも知れない。
彼女、戸田恵梨香は、
結構、筋金入りの女優でした。

戸田恵梨香2018.4.18

可能性は無限大

何か事を成し遂げた人の言葉には心に響くものがある。
人生の年輪を重ねて、その中から紡ぎ出したものが、人の心をとらえ、聞く人、見る人に感銘を与える。
大分前、ソニー創業者の盛田昭夫氏や経団連会長などを歴任した土光敏夫氏の著作を読んだ。その内容は殆ど忘れてしまいましたが、盛田氏の「Made in Japan」には説得力のある言葉が散りばめられ、日本を代表する経済界のトップは言うことが違うなと感じたものでした。
3年ほど前だったか、4月初めの日経産業新聞に経済界のトップによる新人に贈るメッセージが掲載され、東芝を退任した西田元会長の言葉が載っていました。

東芝 西田元会長

その中で西田氏は、「未来は予測するものでなく、自ら作り上げるもの。希望は与えられるものでなく、自ら作るもの」と語り、その言葉が目を引きました。そこにはステロタイプのありきたりな切り口上ではなく、何かしら心に訴えるもの、心の中にさわやかな風が吹くような、そんなものがありました。言葉の持つ魔力--。そうした人たちが発信する言葉には、単にその言葉の意味することのみならず、語る人の人となりが、それに力を与えているのではないかと感じます。それは言うなれば、人の氷山の一角。その人の下には、海の中に潜む大きな氷の塊があり、人の表に出るものはそのひとかけらに過ぎない。だからこそ、海の中の大きな氷を磨き上げるために、日々努力することが必要なのだろうと改めて感じました。
しかしそれは耳を傾ける人がいて、読み手があってこそ。聞く人、読む人がどんなことを求め、それに応えるようなメッセージを発信することができるか。そこに言葉の持つ魔力があります。単に紋切り型の当たり前の言葉ではなく、語り部のなにかを感じ、手作りの感触が伝わり、触れれば温もりを感じさせるような温かみのあるもの。熱いメッセージ。心にひびくもの。そうしたものが、聞く人、読む人の心をとらえ、受け手となる人の心が共振する瞬間となります。それはときとして受け手の価値観を変える原動力になります。
生涯学習という言葉がある。欧米では70歳を越えても、大学に学び一向に知識欲の劣えない人たちがいる。それは素晴らしいこと。学ぶことはなにも義務教育で終わるわけではない。日々学ぶことはあり、大切なのは、そうしたことをほんの少しでも刈り取り、それを積み上げていくこと。それができれば、やがては大きな収穫が得られ、見事な果実を実らせることもできる。それは希望であり、西田元会長の語る「与えられるもの」ではなく、「自ら作り上げるもの」ということでしょう。
人生は短いと言います。しかし、自らの夢を叶えるために短すぎることはありません。まして20代や30代の人であればなおのこと、それからスタートラインに立ったとしても、夢は実現できる。希望は熱意、実現は実行力。夢を叶えるための熱い想いが行動を駆り立て、それを実現するように思うのです。私自身は、そうしたスタートラインに立つには遅すぎますが、それでも忘れてはいけない。決して自らに線引きしてはいけない。これしかできない、これ以上は無理、と自分の限界を、自ら引いてはいけない。可能性は無限大。自分の可能性を信じて、まずは挑戦することが大事でしょう。そして「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」の諺どおり、まずは挑戦すること。積極果敢に、可能性を信じて飛び込むことで実現できる。もしその先に限界が見えると感じたら、それは現状に甘んじる自らの姿を投影しているということ。ワンランク上を目指して、自らをワンランク引き上げる努力をすること。自分になにが足りなくて、それを得るためになにが必要か。それを問い続けて、そのために少しずつステップアップすること。それは全てに通じることでしょう。人生は成し遂げようとすることを実現するために短すぎることはありません。

’†‘中村勘三郎

朝日新聞に以前、「仕事力」というコラムの中で数年前に亡くなった中村勘三郎さんが、面白いことを話していました。それは「形を持つ人が形を破るのが、型破り。形がないのに形を破れば、形無し」。なるほどねと納得の言葉でしたが、一芸に通じた人が語る奥の深い言葉でした。
彼は若い頃、歌舞伎をベースに演じられた前衛的な演劇を観て衝撃を受け、これを是非、歌舞伎に取り込みたいと、早速、父親である先代の中村勘三郎に話したとき、お前には100年早い!と一蹴されたそうです。思い返せばその気持ちがわかると話していましたが、要は、基礎もできていないのに、新しいことに挑もうとするのは、そりゃお門違いだよ、というわけです。仕事も同じ。アイデアをもって、さまざまなことに挑もうとする姿勢は大事ですが、そのためにしっかりと基礎を固め、その上で挑戦せよと。そんなことを思うのです。

2018.4.16
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桜の季節

市内の桜

いよいよ春本番――
このところ暖かい日が続いて、
寒さが緩んできたなと思っていたら、
数日前は夏日のような陽気。
桜の蕾も一気にひらいて
今や春爛漫の花ざかり。
例年ならちょうど今頃の季節は
桜の蕾が膨らみはじめて
桜の花を眺めながら通勤したものでした。
この辺りは至る所に桜の見所があり、
見頃になったなと思えば、
少し早めに家を出て、
いつもの道を少し遠回りして
桜の花のトンネルを走り抜けたものでした。

道の両側から通りを覆うように
しな垂れて咲く桜並木に、
ひとときの安らぎを感じました。
この桜は日本の桜の名所百選にも選ばれ、
市内を埋め尽くす桜の競演は、
本当に見応えがあります。
この景色を見て会社にいた中国人は、
――桜が道路に迫り出して、
  街全体が雲に浮かんだように見えます。
と洒落た表現をしていました。
そして、
――桜の開花は短く、
  人生のように一瞬に輝いては
  消える流れ星のようだ、とも。
でも、コレって不思議ですね。
桜を見て人生に例えるのは、
日本人特有の気質だと思っていましたが、
中国人からこんな言葉が飛び出して、
桜を見て感じる心は、
万国共通なのかもと感じたものでした。

桜の花には
妖艶な美しさがあります。
華麗で、
煌びやかで、
豊潤な美しさがあり、
そんな桜を見て外国のお客さんも
桜の花の美しさに驚きの声をあげます。
上野公園の桜、
北の丸公園や
千鳥ヶ淵の桜の花など、
桜の花を愛でる名所がたくさんあります。

千鳥ヶ淵

さてもさても桜を見て思うのは、
時の流れの早さ。
新学期、新年度、新入学。
桜の花を見ながら時の移ろいを感じ、
去年の今頃は、あの頃は、
と感じたものでした。
我が家のこの辺りは、
例年ならば、
桜の花が咲く今頃が入学式の季節。
遠い日の記憶でも
入学式の日に桜の花が出迎えていました。
わが身を振り返ってみても
遥か遠い昔の記憶ながら、
真新しいランドセルを背にして
母親に手を引かれながら
学校に向かったものでした。
ともあれ桜の花と入学式は
春模様のセット販売のようだと感じます。

ひたち海浜公園↕

春の日の今頃、
こんなことがあったのを思い出します。
通勤途上に車を走らせていると、
真新しいセーラー服を着た
中校生らしい女の子が歩いている。
するとその子の顔がパッと輝いて走り出す。
バックミラーを覗くと、
反対側からも女の子が走ってきた。
友達だったんだねーー。
その日は入学式で初の登校日。
そんな日に親しい友と顔をあわせて
思わず走ったのだと思う。
そんななにげない風景が、
4月の新鮮な風を感じて
清々しい気持ちになったものでした。
2018.4.2

ドラマの中の恋の行方

ドラマは、
キャスティングとシナリオで決まる。
どんなドラマであれ、
まずはシナリオありき。
いいドラマだな、
面白いなと思って脚本家を繰れば、
なるほどと思う。
僕の好みの脚本家は、
坂元祐二、倉本聰、福田靖、
野島伸司、北川悦吏子、
といったとろだろうか。
以前、再放送の「ヒーロー」を見たとき、
なかなか見応えがあって、
誰が書いたんだろう
と思っていると福田靖とあった。
彼の手掛けるドラマは、
心の機微に触れるものが多く、
感動的な台詞が散りばめられている。
救命病棟24時のシリーズも
そうだったし、
ヒーローでも然り。

以前「サワコの朝」という
トーク番組に
シナリオライターの大石静が登場して、
若手が育たない、
まいりましたと言わせる若手がいない、
と嘆いていましたが、
そうなのだと思う。
いいシナリオを作るには、
それなりに深く鋭い感性を備え、
それを言葉にする表現力が必要になる。
そうした感性や技を備えた若手が
育っていないということだろう。

1年半ほど前、
「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」
というドラマがあった。
有村佳純の主演で、

シナリオライターは坂元祐二。
「東京ラブストーリー」や「愛し君へ」
「それでも、生きてゆく」「Woman」
といったドラマを手掛けて、
次々とヒットを飛ばしてきた。
とりわけ感心するのは、
シナリオの作風やテーマがみんな違うこと。
小説家でいえば、
浅田次郎のようなタイプだろうか。
それだけ繊細で創造力も豊か。
才能に溢れている。

ドラマの中にこんな場面がありました。
主人公・音(有村佳純)の好きだった彼が、
東京を去って、
故郷の会津へ帰る場面でした。
彼らを慕う老婦人(八千草薫)が彼女に、
ーー追いかけなくていいの。
  本当に好きなら、
  ちょっとずるしたっていいのよ、
という言葉に首を横に振り彼女が言う。
――あのね、私ちゃんと好きになりました。
  短かったけど、ちゃんと好きになった。
  それが凄く嬉しかったんです。
  ずっと、ずっとね、思ってたんです。
  私、いつかこの恋を思い出して
  きっと泣いてしまう、って。
  私は今かけがえのない時間の中にいる。
  二度と戻らない時間の中にいるって。
  それくらい眩しかった。
  そんなことないから
  後から思い出して
  眩しくて、眩しくて、
  泣いてしまうんだろうなって。

そんな台詞が素朴で、ピュアで、切ない。
そんな想いがあふれて、
こんな台詞を語らせる坂元祐二というシナリオライターが、
なかなかだなと思うのです。
2018.3.30

いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう

 

桜の樹の下で

順風満帆に思える道も、
平坦な道ばかりではない。
それを身に染みて感じたのは学生時代だった。
父と母の死――――。
それは悲しいというより、
やりきれない淋しさと言った方がよい。
決して親孝行とはいえない自分の前から、
突然、親父やお袋の姿が消える。
まだまだこれからだよと思っていた二人が、
忽然と姿を消す。
そのときの虚しさや淋しさ、
そして後悔、
そんなものが次から次へと押し寄せた。

大学3年のときだった。
その日は正月があけた1月10日。
授業がはじまり
アパートへ帰るとお袋から電話があって、
――お父さんが倒れたの・・
と言う。
取るものもとりあえず家に向かった。
お袋は暗い部屋の中で、
親父に仕切りに話し掛けていた。
絞り出すような声で、
その声が静けさを切り裂くように響いた。
翌朝、救急車が音もなく滑り込んで、
大通りに出ると
イレンを鳴らして走りだし、
その途端、涙が堰を切ってあふれた。
その後も様態は好転しなかったが、
学年末試験を控えて東京に戻ることにした。

1ヶ月後の2月6日。
その日は学年末試験のさなか。
大学から帰るとドアの下に、
――家に電話してください、
とメモがある。
電話をすると知り合いの人が出て、
――奥さんの具合が急に悪くなって……、
と言う。
看病の疲れや
気苦労が重なったためだろう、
以前の病気が再発したものらしい。
矢も盾もたまらず、
その夜の電車に飛び乗った。
電車の中では暗い窓の外に目を移して
顔を伏せていた。
色々な想いがよぎり、
やりきれない気持ちで涙があふれた。

お袋は不運な巡り合わせというべきか、
親父の隣の病室に入院していた。
親父にはお袋が入院したことを
伝えてはいませんでしたが、
毎日顔を見せていたお袋の姿が
急に見えなくなって
――お母さんはどうした・・、
と言葉少なに呟いた。
最初は言葉を濁していたが、
やがて返す言葉も失った。

親父の様態が急変した。
その日は友人と小旅行を予定していたが、
虫の知らせというのか、
それを断って実家に帰った。
しかし家に帰ると父はすでに亡き人で、
お袋は隣の病室に
慌ただしく人が出入りしていたのを
感じたらしく
僕の顔を見るなり声もなく泣きだした。
やりきれなかった。
生涯を共にした父が
亡くなったことも知らされず、
隣の病室にいるはずの父の安否を、
ひたすら気遣っている。

葬儀が終わった4月、
病室の窓から春爛漫の桜の花が見えた。
――桜の花が綺麗だよ、
と言いながら、
窓の外の桜の花を見せようとして
ベッドを起こした。
少し肯きながら
顔がほころばせたように見えた。
お袋は右半身が不自由で、
身体が思うようにならない。
伝えたいことも言葉にできない。
あしたから大学・・
――授業が始まるから東京に帰るからね。
と言いながら
ポケットから車の鍵を取り出すと、
お袋はその鍵を強く握る。
――駄目だよ、行かなくちゃ、
と言いながら無理に奪い返そうとすると、
さらにそれを強く握りしめる。
仕方なく手を緩めると、
お袋はその鍵を壁に投げつけて泣き出した。
そのときのことが脳裏に焼きついて、
今でも忘れられない。
人生の中でいちばん悲しい記憶と
いえるかもしれない。

6月20日――――、
そのお袋も看護が報われることなく、
53歳の生涯を閉じた。
お袋には遂に
親父が亡くなったことを
知らせることはありませんでした。

そして3月28日――――。
親父の命日。
何回目になるんだろう。
数えるのも面倒なほど歳月を経ている。

2018.3.28