生きた言葉

生きた言葉――
それを考えることがある。
本を読んで、映画を見て、
ドラマの台詞にさえ、
はっとさせられる言葉がある。
そんな中に「フーテンの寅」がありました。
僕自身は必ずしもこの映画の理解者でも、
熱烈なファンでもありませんが、
この映画は凄いと思う。
勿論、映画のキャスティングは素晴らしい。
それ以上にこの映画のシナリオを書き、
メガホンをとった山田洋次監督の才能が凄い。
単なる映画好きじゃない才能。
それを活かす術を知る達人。
そうしたスキルとセンスを持ちあわせた人だからこそ
この映画ができた。
寅さんの叩き売りの口上も彼のオリジナル。
異才を放って絶妙な仕上りになっている。

NETを引くと、
寅さんの名台詞がいくつも検索できます。
フーテンの寅――
お調子者でひとりよがり、
いつも手前味噌の考えをひけらかし、
事あるごとに周りに迷惑をかける。
それでも憎めない。
人の良さでみんなに愛されている。

彼は「愛」についての第一人者でもある。
ひたすら自らの愛を実践し、
愛を語らせれば哲学の領域におよぶ。
そんな彼が、
愛を研究する大学教授に
恋愛論を説く場面がある。

《寅》愛なんて研究するまでもなく、
   もっと簡単なことよ。
   常識だよ、いいかい。
   あーいい女だな、と思う。
   その次には、話してみてえなあと思う。
   話しているうちに今度は、
   いつまでもそうやっていたいなあ、と思う。
   その人の傍にいるだけで、
   なにかこう、気持ちがやわらかーくなって、
   あーこの人を幸せにしてあげたいな、と思う。
   この人の幸せのためなら俺はどうなったっていい、
   死んだっていい、
   そんなふうに思うようになる。
   それが、愛よ。違うかい。

ほのぼのとして説得力がある。
そこには実践で培われた本物の愛があり、
それが活きている。
人の心を共感させるのは、
自ら納得して語る言葉だからでしょう。

◇寅さんが人生を語る場面もある。
 青春真っ只中で生きることに悩む甥との会話で。
《甥》人間は何のために生きてんのかな。
《寅》難しいこと聞くな、お前は。
   何と言うかな、
   あ一生まれてきてよかった。
   そう思うことが何遍かあるだろう。
   そのために生きてんじゃねえのか。

◇勉強や進学に悩む甥には。
《甥》大学に行くのは何のためかな。
《寅》決まってるだろう、勉強するためじゃねえか。
《甥》何のために勉強するんだ。
《寅》難しいこと聞くなって言っただろう。
   ……つまり、何と言うか、
   人間長い間、生きていりゃ、
   色々な面倒なことにあうだろう。
   そん時、俺みたいに勉強していない奴は、
   いい加減にサイコロを振ったり、
   気分で決めたりするしかないんだ。
   それが勉強した奴はな、
   自分の頭でキヂンと筋道をたてて、
   どうすればいいかってことを考えられるんだ。
   そのために大学に入るんじゃないか。

寅さんはその場その場の
感情に流されて語り、
決して論理的じゃないが、
それでも物事の本質を直感で捉えて、
人の道を逸れることはない。
寅さんの言葉には、
なにげない言葉に
はっとさせられるものがある。
人は勉強したり、
教養を積むことで成長するが、
それだけじゃない。
自分の意志できちんと生きること。
そのためには情報を吸収し、
知識を身に付けるだけでは駄目で、
自分自身の世界を創るための
知恵が必要だということでしょう。

個性を磨く――。
そのためには情報や知識も必要ですが、
それを活かす術や
自分自身の世界観を創ることが必要で、
そのもとになるのは感性。
どんなことを感じ、
どんな価値観を持つか。
それを表現する術を磨いていく。
それが人の個性や世界観を創ることになります。

サワコの朝というトーク番組で、
ある俳優がこんなことを話していました。
――ある人に訊いたんです。
  才能と努力と運のうち、
  いちばん大事なものはどれですか、と。
それに答えて、
――才能があるヤツは大勢いる。
  けれど、それを活かせるかどうかは、
  運と努力だと。

才能があるだけでは、
それを活かすことはできない。
才能を活かすための努力と運。
そこには人との巡りあわせもある。
経験を積むことも大事。
経験もまた努力。
多くの場面でさまざま経験を積んで、
その中で
自分自身の感性のフィルターを通して、
自分なりの考え方、
感じ方を通じて、
自分流の世界観を拡げていく。
同じことを経験しても
アンテナを伸ばして感性を震わせることがなければ、
なにかを感じ取ることはできない。
自分の世界観を拡げていくのは、
結局は自分自身でしょう。
2018.7.9

人の出逢いと別れ

子供が小さい頃、
家族で北海道旅行をしました。
長女は小学2年生、
長男はまだ幼稚園生でした。
子供たちがその当時、
帯広のおじいちゃん、
小樽のおばあちゃんと呼んでいた二人に
会うことを兼ねて、
夏休みに車を走らせました。
とは言うもののこの二人は、
実のおばあちゃん、

おじいちゃんではなく、
おばあちゃんは父の従兄弟、
おじいちゃんは旅先で知り合った人でした。

帯広のおじいちゃんは、
家内が旅先の北海道の列車で出会い、
その後、毎年のように
季節の食べ物などが
ダンボールに詰めて送られてきて、
こちらも地元の名物などを送って、
その付き合いが10年ほど続きました。

北海道紀行の最初の宿は
小樽の高台にある
マウント・ヒル小樽という公共の宿。
偶然にも親戚の家は目と鼻の先の、
1kmほどのところでした。
夜、電話をすると、
おばあちゃんは入院しているんだよ、
というので、
翌日、お見舞いに行きました。
おばあちゃんはとても元気そうで、
病人には見えないほど。
笑顔をふりまいて、
帰り際には、
今夜泊まっておいで、
冬になったらスキーにおいで、
近くにはキロロもあるよ、
と私達の訪問を快く出迎えてくれました。
この時は、
旅行の予定は決まっていたので、
きっとまた来ます、
と言い残して去りました。

しかしその数ヵ月後、
突然の訃報。
元気なうちにもう一度会いたい、
との願いは叶えられませんでしたが、
年末に墓参りを兼ねて
小樽の家を訪ねることにしました。
小樽の家は港を望む高台にあり、
そこで正月を迎えました。

小樽の家を訪ねて驚いたことは、
徹底した防寒対応。
そのときは今ほど
省エネが注目されていませんでしたが、
さまざまな防寒の工夫が施され、
玄関は雪国らしい二重扉で、
家の中は床暖房。
天井と壁は断熱材が張り巡らされ、
全ての窓が三重サッシ。
全館全冬の空調設備で、
外出するときも火種を絶やすことなく、
家の隅々まで暖房が行きわたり、
――真冬でも半袖だよ、
との言葉どおり、
室内は常に25度で、
24時間セントラル・ヒーティング。
家の中は全くの寒さ知らず。
大分前、ご主人が若い頃、
我が家にスキーを抱えて
泊まりに来たことがありましたが、
寒い寒い!と言いながら
――内地(本州)に行くと寒くて風邪ひいちゃうよ、
と話していたのを思い出しました。
北海道の家は真冬も快適な生活で、
なるほど!と納得しました。
気になるのは光熱費。
それほど暖房を施しても
ひと冬で10万円くらいだと言います。
雪国の冬は快適で光熱費も安い。
北国の冬は暗くて
じめじめした暮らしを想像していましたが、
とんでもない誤解、
と雪国のイメージが一変しました。

小樽のおばあちゃんは、
時代を逞しく生きた人でした。
かくしゃくとした気丈な人で、
面倒見がとてもいい。
それは若い頃からの気質らしく、
友人の中に若い頃の作家、
三浦綾子がいました。
私が、三浦綾子の回顧録ともいうべき
「青春時代に出会った本」という本を読んでいたとき、
偶然にもおばあちゃんのことに触れる
くだりがありました。
作家・三浦綾子はご存知のとおり、
「氷点」「塩狩峠」「泥流地帯」などを書いた著名な作家。
三浦綾子さんとは、
歌志内の神威小学校時代の教員仲間で、
小樽の家には三浦さんから贈られた寄贈本が並べられ、
息子さんは、
――新刊本が出るとこうして
  一筆添えて送ってきてくれるんですよ、
と話していました。
三浦さんは先生を友人として、
そして恩師としても大変慕っていたらしく、
ともにクリスチャン。
三浦さんの青春時代に
大きな影響を与えた人だったようです。
本の中では数頁の簡単な紹介でしたが、
彼女は「K.Y」というイニシャルで、
教員仲間の部隊長と呼ばれていたとあり、
いかにも「らしいな」という気がしました。
彼女の父親は小説家、
本人は女学校、音楽学校、医薬専などを卒業して、
神威小学校で当初は、
代用教員として採用されたそうですが、

正教員の免許をとるために
女学校の補修講義に再入学し、
卒業後は三浦さんらを引き連れて
神威小学校に教員として戻った、
と語られていました。

歌志内は時代を凌駕した北海道の炭鉱町。
生徒も2000人を越えたと言います。
三浦綾子さんにとって、
K.Yさんは先輩であり、
努力の人であり、
人生の手本とすべき尊敬する人、
大恩人でもあったようです。
三浦綾子さんはその後、
彼女の影響を受けて書に親しみ、
再び勉学の熱に燃えたとありました。
そのとき昭和16年。
北海道の戦火はなお遠く、
三浦綾子18歳、K.Y.33歳。
ともに今は亡き人で、
人と人の巡り逢いで
人生の色模様も大きく塗り替えられる、
ということを痛感しました。

旅行のもうひとつ目的は、
帯広のおじいちゃんを訪ねることでした。
おじいちゃんは、
家内が結婚前に高校時代の友人と
北海道旅行をしたとき、
襟裳岬の先にある
幸福駅へ
向かう列車の中で出会った人。
農協仲間との旅行で、
旅はつれづれ列車の中で会話をかわし、
それ以後、北海道からじゃがいもやてんさい、
六花亭のチョコやお菓子、
長男には高価な釣り道具一式が送られて、
お年玉や七五三祝いなどが贈られたこともありました。

子供たちは、
帯広のおじいちゃんと呼び、
その年の夏、
元気なうちにおじいちゃんに会いたい、
との願いを込めて北海道に向かい、
十勝のキャンプ場でテントを張り、
一緒に夕食を食べて、
翌日、再びやってきて、
帯広近くのひまわり畑の迷路を歩きました。
でも、とても疲れた様子。
別れ際に、
――これで、いつ死んでもいい・・・
と呟きました。
それが最後でした。
おそらく不治の病に侵されて、
余命が少ないことも知っていたのだと思います。

人と人との出会いと別れ。
さまざまな歓びに出会いましたが、
別れの切なさや淋しさも感じたものでした。

2018.7.6

中国人の国民性②

ある中国人は言い切る。
中国人は絶対にだまされない。
なぜかと訊くと、
だまされる前にだますからだと言う。
こんな事件があった。
ある男性が倒れている老人を助けて
タクシーで病院まで運んだ。
検査の結果、老人は足を骨折している。
しかし検査後、
この老人はとんでもないことを言い出した。
――この男性に押されて転んだ、と。
恩人であるはずの男性を訴えて
裁判沙汰に発展したという。
その後のインターネットのアンケート調査で、
――あなたは老人が転んでいたら助けますか?、
との問いに対し、
8割の人が「助けない」と答えたそうです。

日本人と中国人は驚くほど価値観が違う。
その違いを象徴する一文があった。
北京から来日した男性。
美しい日本女性と結婚して
周りの人に羨ましがられていた。
けれど、その日の飲み会では顔色が冴えない。
――奥さんとうまくやっているのか、
との間いに首をうなだれる。
彼は離婚訴訟の真っ最中だった。

ある日、
彼は外出しようとしたが定期券はない。
奥さんは休日。
そこで奥さんに、
――定期貸してよ、
と頼んだが、
普段は温和な奥さんも
顔を真っ赤にして怒った。
――これは私の通勤定期。
絶対に駄目。
使わせるわけにはいきません――
しかし彼は納得できない。
――どうせ使わないんだから、
使わなきゃ損だろう。
本当に頑固なんだから・・。
日本人なら当たり前のことも、
彼にはわからない。
他人が使えば不正使用だが、
それも理解できない。
それはどこまでも続いて、
やっぱり離婚という結論に達した。

その国にいれば当たり前のことも、
国によっては、
考え方も、価値観も、国民性も違う。
だから戦争も起きるし、
考え方の大きな違いも生じる。
理屈じゃなく、
そうした違いに
実感として付いていけるかどうか。
中国の倫理感覚がどうなっているのか、
よくわからないが、
中国という国の、
そうした変貌はどこにあるのだろう。
おそらくそれは毛沢東による
文化大革命に端を発している。
文革中は共産党に対して、
絶対的な忠誠を尽くさなければならなかった。
忠誠を尽くさない人間は告発され、
刑罰を科せられた。
親が子を、子が親を告発し、
夫婦もお互いに告発し合う。
学生は教師を、
教師も学生を告発する。
これではお互いの信頼関係が
成り立つはずはない。
そうした中で築かれた共産主義国家。
かつての精神主義は跡形もなく消え、
その後は中国共産党による一党独裁の国家。
国家存亡の機軸は経済至上主義に移り、
全ては国家の利害、
経済の利害が最優先される。
同僚が告発し合い、
自分以外は毛沢東と共産党しか信じない。
そんな社会が10年間続いた結果、
国家と人間の精神面のあり方は、
歪んでしまったように見える。
その後は拝金主義と、
自己中心主義が席巻する国となった。

中国には、
道徳という土なくして、
経済の花は咲かず。
という諺がある。
しかし今の中国社会は、
お金の前では全てが正当化される。
人命、環境破壊などは後回しされ、
手抜き工事、有害食品、賄賂、
労働者への賃金未払い、裏切り、捏造、偽装など、
そうしたことは枚挙に暇がない。
中国は賄賂社会。
どんな事業であれ
役人への賄賂なくして成り立たない。
著作権や特許権の侵害も当たり前で、
海賊版が大手を振って出回る国でもある。
これからの中国は経済一辺倒ではいられない。
公害問題は根が深いし、
諸外国との信頼関係も危うい。

日本と中国――
本当に理解しあうことができるかどうか。
それには互いの違いを知り、
歩み寄ろうとする姿勢がなければ、
どこまでも平行線のままだろう。
日本と中国は一衣帯水の国。
歴史的関係も深いが、
今は反目する場面も多い。
欧米の国々では、
許そう。しかし決して忘れまい、
との姿勢を貫いているが。

2018.6.22

中国人の国民性①

欧米の地図を見ると、
日本は世界地図の端っこにある小さな国。
遠い、目立たない、知らない。
だから日本に行こうとする人が
少ないのは当然だろう。
それでも欧米人にとって、
日本はエキゾチックな国に映るらしい。
最近は日本文化の関心が高まり、
Cool Japan に象徴される国。
ともあれ世界の、
日本への関心が高まることはよいこと。
単に産業立国や経済大国という代名詞ではなく、
優れた日本の文化を知らせ、
日本の魅力を高めていくことが必要だろう。

観光立国・日本――
来日する観光客が増えたが、

その中でも急増したのが中国人観光客。
最近の経済発展の影響で、
日本に足を運ぶ人が増えた。
とりわけ最大の人気スポットは富士山。
年ほど前、
山中湖のほとりにある忍野八海に行ったとき、
ごった返す観光客の中でも、
中国人観光客の多さにびっくりした。
大型観光バスを5台ほど連ね、
中国人パワーに圧倒された。

新宿の歌舞伎町でも
中国人観光客を見かけた。
バスから降りて舗道にスーツケースを積み上げ、
これからどうしようという風に話し、
やがて荷物番をひとり残して散って行った。
不思議な光景だ。

中国人は見れば大体わかるが、
日本人と見分けがつかない人もいる。
エレベーターの中でも
日本人と思っていると中国語を話し、
驚くことがあった。
それに威圧感を感じる訳ではないが、
マナーの悪さに辟易することがある。
メトロの中で大声で話す中国人の女の子がいた。
スカートの裾は乱れ、
話し声が周りに聞こえても平気。
中国人は国際社会に出遅れて、
最近になって世界の舞台に登場し、
そうしたルールやマナーに
馴れていないせいかもしれない。
マナーの悪さをあげればキリがない。
大声で話し、ごみを散らかし、
煙草の吸殻はポイ捨て。
列車待ちのホームで、
日本人なら行儀よく並んで待つが、

中国人は電車が来れば列を無視して、
扉に殺到することがある。
中国の旧正月の列車は、
故郷に向かう客でごった返す。
列を作らず割り込みは当たり前で、
列車が到着すると窓から荷物を放り込み、
席の取り合い、奪い合い。
そんな光景がテレビに映っていた。
中国人は礼節を重んじる国だったが、
文化大革命以降の中国では、
我先にと他人を押しのけて
競争に勝つことが優先される社会になった。
拝金主義の国でもある。

車を運転するには、
任意保険への加入が常識。
中国でも車の所有率が高くなったが、
保険に対する感覚が日本とは全く違う。
日本人が中国の友人に、
どんな保険に入ったのかと聞くと、
車両保険のみ。
じゃあ人を跳ねたらどうするんだと訊けば、
車の方が大事だからという。
車の修理代は高いが、
人が死んでも大したことない。
聞いた人は呆気にとられ、
中国人の、人の命に対する感覚は、
どうなっているのか、
と思ったそうだ。
中国では人の命より車。
車が全損すれば数百万円必要だが、
人が死んでも50万円程度だという。
中国では車が普及したが、
事故があった場合の保障環境は整っていない。
中国でも交通事故で人をはねれば
救急車を呼ぶのは普通。

しかし最近は救急車を呼ぶことなく、
自動車で被害者を何度もひいて轢き殺す事件が
続発しているという。
事故で死亡した場合の賠償金は、
最高約300万円と決まっているが、
場合によっては、
重傷被害者の補償の方が高くなることがある。
重傷を負わせて多額の賠償金を払うより、
死んでくれた方が安上がって、
どういうこと!!

事実、路上で寝ていた少女が、
二度も車に轢かれたが、
誰も助けず放置される映像が
インターネットに流れて、
日本のニュースでも取り上げられた。
この事件は中国でも大きく取り上げられ、
生活は豊かになったが、
道徳観が薄れてきたなと感じる人が多い。
びっくりびっくりの中国事情です。

2018.6.20

戦い終わって日が暮れて

FIFAワールドカップが開幕した。
そしてあす、
日本はコロンビアと対戦し、
ロシアを舞台に、
文字どおり世界が熱狂し、
血湧き肉躍る熱戦が
繰り広げられることになる。

思い出すのは16年前の、
日韓共催のワールドカップ。
あのときは日本の期待はいやが上にもあがり、
猫も杓子もワールドカップへとテンションがあがる。
目の前で見る
世界のスポーツ祭典は
開催日へのカウントダウンとともに、
巷での下馬評論戦も華やかだった。
あの当時、
日本はさほど強くなくても
中田、小野、高原、中村、川口、
といったスター選手がたくさんいて、
彼らを見ていると、
なにかやってくれそうだとの期待が膨らんだ。
今回はどうだろう。
少し冷静で、
少し冷めて、
日本を巻き込む過剰な期待感は失せ、
これぐらいはできるだろう、
とのうがった見方が先立つかもしれない。
それでも日本のレベルは上がった。
最近の世界戦の成績は
振るわないものの、
日本の、世界での立ち位置は確実に上がっている。
スポーツは熱さこそ命。
愛すべきチーム、応援するチームがいて、
目前にある高い壁の前でも、
実力以上の力を出すことを期待する。
たとえ負けたとしても、
よくぞやったという
チームへの声援応援の声がある。

日韓共催のワールドカップのとき、
友人に充ててこんなものを書いた。

***

FIFAワールドカップ。
共催国の日韓両国はもとより、
世界中が熱い熱気に包まれる。
何がこれほどまで人を熱狂させるのだろう。
サッカーに全く興味を示さない人でさえ、
この日この時ばかりは、
俄仕立ての熱狂的なサポーターに変わる。
中田、中山の名前は知っていても、
宮本や秋田は知らないし、
アントラーズの拠点がどこにあるのかも知らない。
しかし、頑張れ日本!の熱いコールは、
競技場だけでなく、
ほんの横丁の八百屋さんやカフェ、
そして家庭内総動員で、
熱く、熱くこだまする。
日本緒戦のベルギー戦は視聴率65%。
東京オリンピック女子バレーの66%には、
ほんの少し及ばなかったが、
それでも日本中が沸きに、沸いた。
鈴木の同点弾、
そして稲本の逆転ゴール、
結果は2対2の引き分けとなったが、
それでも観衆は一応に満足そうだった。
ともあれ筋書きのないドラマ、
そして世界レベルの技、
それを連日連夜、目の当たりに見せるサッカーは、
俄仕立てのファンも大いに唸らせた。
フランスのジダンなど、
本戦出場をまだ果たしていない名選手もいるが、
そのスピード、戦略、華麗なボールさばき、
観衆の眼を見張らせるトリックプレイなど、
世界レベルの質の高さと、
サッカーの奥の深さ、
その魅力を存分に見せている。
もとより世界の観衆をこれほどまで熱狂させるのは、
世界万民の共通認識ともなる
愛国心という名の運命共同体。
それこそが見る人を自国の応援に駆り立て、
熱狂させる源となっているのだろう。

***

戦いすんで日が暮れて……。
日本もとうとう敗れてしまいました。
アルゼンチンやポルトガルなど、
優勝候補が次々に姿を消していくなか、
日本頑張れ!の応援の声も空しく、
選手はピッチを去りました。
しかし今回のW杯は、
日本の予想以上の健闘で、
数々のドラマ、感動や夢、
そしてサッカーの面白さを伝えてくれました。
だからこそ、次なる凱旋舞台を、
踏むことなく去っていく選手を、
よくやったと讃えたい。

夢破れて山河あり――。
中国の著名な詩人・杜甫の詩の一節ですが、
勝利の感動は敗者があればこそ。
敗者の姿が鮮烈であればあるほど、
際立つものです。
それを痛切に感じたのは、
韓国vsイタリア戦でした。
トッティやビエリ率いる強豪を前に
韓国は互角の戦いで、
遂に逆転勝利をものにしました。
開催国の強みがあるにせよ、
絶対的戦力では到底イタリアに敵うはずがない。
それが真っ赤に染め抜かれたスタンドの前で、
とうとう勝利を勝ち取った。
狂喜する韓国選手、
それに呼応する大歓声。
ガックリと肩を落とすビエリ、
泣き崩れる選手もいる。
勝者がいて、敗者がいる。
だからこそスポーツではあるけれども、
強い者が必ず勝つとは限らない、
との戒めを改めて感じたものでした。
とりわけサッカーは運にも左右される。
日本ですら開催国の勢いで勝ち進んだのかもしれない。
それでも日本は確実に力をつけ、
世界の舞台を踏むにふさわしい戦力を備えてきた。
この日本の戦い振りを見て、
ベッカム選手は、
3年後、日本でプレーしてもいいとほのめかし、
日本中が歓迎ムードに包まれた。
CKで見せた正確無比のアシスト、
やはり世界一級品のプレーと大きな溜息をついたが、
あのプレーをJリーグで見られれば、
日本のサッカー熱はさらにヒートアップするだろう。
日本のサッカーは地殻変動を起こすかも知れない。

2018.6.18

生き恥をさらすなカラス!

俳人小林一茶は、
蝿や蛙、雀に至るまで
慈愛の心をもって接し、
それを句に託していますが、
我々凡人には、
なかなかそれはできないこと――。

昔々、家の前で
タヌキと散歩している人に
出会いました。
最初は、
丸々と太った犬だなぁと思いつつ
通り過ぎようとしましたが、
良く見ればコレが何と、
タヌキ!――
でもこれは動物虐待ですね。
自然界に生息するタヌキに
首輪をつけて紐で括る。
タヌキは人目にさらして
コロコロ転げて走り回る。
それは、ソレは、醜い姿でした。
飼い主は動物愛護のつもりか、
毛並みも犬並みにしていましたが、
所詮、タヌキは狸、
腹鼓を打ちながら山で暮らすのがお似合いです。

そして、
眼につくのはカラスの非道ぶり。
カラスはなぜか悪賢い。
狡猾、陰険。
それだけに、
生き恥をさらすなカラス!
と憤っています。
二人の子供を毎朝、
見送りしていた時期があります。
早い時間に
駅前の通りを車で走ると
カラスが生ゴミを漁ってたむろしている。
1羽ならまだしも、
5羽、6羽、7羽と群れをなして、
ゴミのポリ箱を倒して食い散らかし、
ゴミは通りの真ん中に散乱して、
そのゴミを追うように
カラスが道路のど真ん中で食い漁っている。
思わずアクセルを踏む。
轢き殺してやる!と叫んで
直前で良心が咎めて思いとどまる。
我ながら仏のようだと思うが、
カラスには、
――生き恥をさらすな!
と仏の説法を唱えます。
しかし一方でカラスは、
飼い犬や、猫、
家畜として飼っている羊まで襲う。
冬のさなかにカラスが、
10数匹の羊を襲って殺してしまった、
とのニュースが流れたことがあった。
恐るべしカラス。
真っ黒で見た目も醜く、
できればこの世から消えてなくなれ、
と思っているんですが、
そんな私はやっぱり、
仏にはなれないでしょうか。
ともあれそんなカラスですら、
動物愛護の対象でもあるらしい。
無闇に殺生することは、
法律で禁じられているようですが、
犯罪カラスを放置して、
なにが法治国家かと、
残念に思うのですが。

2018.6.15

小さな国際交流

長女が入学した中学は
交際交流が盛んだった。
世界中に友達をつくりたい――。
とのメッセージも看板倒れではかった。
この中学では、
春はアメリカから、
秋はオーストラリアから、
高校生の交換留学生がやってきた。
長女が中学1年の9月のこと、
オーストラリアから
交換留学生が来ることになった。
学校から通知を持ち帰るなり、
ーーねぇ駄目?と話してくる。
中学に入ったばかりで、
英語が話せるはずもなく、
こちらも英語には縁遠い。
とても外国のお客さんをもてなすのは無理。

しかし事は一方的に進んだ。
不安な気持ちでお客さんを招くことになった。
それは相手も同じ。
ホームステイは2週間の短期間とはいえ、
期待もある反面、
不安も多いはず。
異国の地で言葉も不自由、
生活習慣も違い、
家族以外の他人の家で過ごす。
そんなことを痛感したのは来日初日だった。
彼女は高校2年生。
我が家に訪れて簡単な自己紹介をして、
居間でスーツケースを広げ、
家族の一人ひとりにお土産を手渡していた。
カンガルーの革のベルトや
テーブルクロス、
お洒落な箱や長男のラグビーボール。
それこそたくさんのお産を抱えてやって来て
部屋に案内すると突然泣きはじめた。
訳がわからずにいると、
彼女は日本語の辞書を引きながら
圧倒されたと言う。
それが何を意味するのかわからなかったが、
不安いっぱいの中で、
それなりの対応を受けて
緊張が一瞬にほどけたのだろう。

その後彼女は、
何事によらず一生懸命だった。
何か伝えたい事があると、
辞書を片手に片言の日本語で話しはじめ、
日に日に打ち解けて、
子供たちとウノやトランプに興じて
眠い目をこすりながら過ごした。
2週間の滞在の間に、
ホームステイに訪れたほかの生徒と
ディズニーランドに行ったし、
我が家では休日を利用して、
裏磐梯の国民休暇村に連れていった。
純和風の旅館に温泉風呂。
裏磐梯や五色沼などの観光地。
そんなところに案内するのもいいかな、
とプチ旅行を愉しんだ。
彼女はときおり、
メルボルンにいる家族と電話していたが、
とても愉しげに話をしていた。
その日のできごとを話していたのだろう。

日本とオーストラリア。
生活環境や習慣の違いもある。
オーストラリアは湯船に浸かることはない。
大抵は朝のシャワーで済ます。
休み時間にお菓子を食べて、
寝る時間も早い。
日曜の朝は必ず礼拝に行って、
食事の前のお祈りも欠かさない。
朝食はシリアル中心のメニュー。
そうした習慣の違いは、
ときにとまどい、
ときに刺激的。
彼女は僕らに溶け込もうとして、
できるだけ一緒の時間を過ごそうとしていた。

2週間の滞在を終えて
別れの日の前の夜。
なかなか寝ようとしない。
名残惜しそうにいつまでも一緒にいた。
あしたの準備は大丈夫?というと、
2階にあがってバッグを整理し、
早々と居間に戻ってきた。
僕らの2週間の思い出を、
ビデオにおさめて持ち帰らせることにした。
オーストラリアは、
ビデオのシステムが日本とは違った。
オーストラリアはPAL方式で、
市の視聴覚室で変換して手渡した。
学校から空港への送迎バスに乗り込むときも、
彼女は目にいっぱい涙をためて、
バスの中から大声で僕らの名前を呼んでいた。
別れを告げるとき、
――I miss you!、
と言って涙を流していたことが印象的だった。

最初の心配や不安をよそに、
オーストラリアの
心地よい風が吹きぬけた日々だった。
ほんの2週間ではあったけれど、
彼女にとってもよい思い出になったと思う。
遠い異国の地で、
その国のありのままの生活をする。
それはそれで
訪れた国の文化を知るには、
良い経験になったはず。
玄関で靴を脱ぎ、
食事に箸を使い、
畳の上で寝るーー
納豆や、わさび。
そして鮭に海苔などの朝の定番メニュー。
日本人にはごく当たり前のことも、
異文化体験として強い印象として残る。
そうした体験のひとつとして、
彼女に浴衣を着せ、
花火をしたことがあった。
初秋の季節はずれの夏の風物詩――、
彼女にとって殊のほか気に入ったようだった。
そんな縁もあって、
中学2年生のとき長女がオーストラリアで
ホームステイをすることになった。
そのとき最初に予定した
ホームステイ先が変更になって、
メルボルンの彼女の家に招かれることになった。

そんな風にして
小さな国際交流は
彼らにいつまでも消えることのない
新鮮な記憶を刻むことになった。
2018.5.30
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世界中に友達をつくりたい

世界中に友達をつくりたい――

入学式を迎える季節になると
思い出すシーンがある。
それが娘の講堂の壇上での
このメッセージでした。
入学したのは車で10分ほどの私立中学校。
今は男女共学ですが、
当時は女子2クラスだけの小さな学校。
英語教育に定評があり、
その中に教え方が上手な先生がいて、
その先生に出会ったことが、
その後の彼女の人生を変えたかも知れない。
制服が清楚で可愛らしく、
学校の評判もいい。
――どうだ、受けて見るか?
と訊いたものの興味を示さない。
その話はそのまま頓挫しました。
ところが10月ころ、
急に「受けてみたい」と言い出す。
週末に学校に出向き、
学園祭を見ながら受験要綱を受け取る。
早速、受験の準備。
まずは学習塾を探す。
何箇所か電話して、
――来春、受験したいんですが、
と話すと、
――えっ!今からですか、
合格の保証はできません。
との返事。
合格レベルがどれほどのものか知らないが、
過去問を解いてみる。
合格できそうもない。
1月の受験まで3ヶ月ほどだったが、
僕自身が面倒を見ることにした。
その日から4年から6年生までの、
算数、国語、理科、社会の問題集を
3冊ずつ解くことにした。
比較的やさしい問題集に始まり、
間違った問題は反復して繰り返す。
3ヶ月で30冊の問題集を解いた。
問題が解けなくて泣きながら
食堂のテーブルに突っ伏して寝てしまうこともあった。
そんなこんなの3ヶ月。
その甲斐あって試験後の自己採点で算数は上々、
ほかの教科もまずまずで、
合格を確信した。

合格発表の日。
学校を訪れると教頭先生から、
新入生を代表して挨拶してほしいと言う。
試験の成績がトップだという。
まさかね、本当かな・・。
受験塾から見放された長女は、
3ヶ月でトップ合格。
やればできるじゃないか!ともいえるが、
無我夢中で、
合格ラインを知らずに
勉強したのがよかったのだと思う。

その後、高校受験では併設の高校から
学資免除の特待生としての誘いもあったが、
娘の同級生の父兄から、
**はとてもいい学校との話。
紆余曲折を経て
長女は高校から、
長男は中学を受験することになった。

その当時、
小学6年生だった長男のこと。
学校の担任の先生は、
長男を高く評価してくれ、
――公立ではもったいない。
私立に行かせたらどうですか。
と言う。
公立の先生がそんなこと言っていいの、
とは思いましたが、
まさかその学校を受験するとは
思っていなかったらしい。
本人は最初のうちは散々迷い、
行かないと言っていたが、
11月半ばを過ぎて突然、
――受験してみる、と言い出した。
試験日は1月の初め。
試験まで正味1ヶ月半。
とても無理ッ!というのが本音でした。
ともあれやるだけやってみるか、
とは思ったものの、
その頃は仕事が忙しく、
勉強を見てやる余裕もない。
算数と国語はなんとかなるのでは、
と理科と社会の分厚い問題集を買って、
やっておいてと手渡した。

そうこうして受験の日。
受験後に掲示された試験問題は手強くて、
大人でも解けない頓智を凝らした出題もあり
合格は無理だなと諦めた。
合格発表の日は大雪。
車で行くことができず、
家内が学校まで電車で出向いた。
長男にとって
最初はどうでもいいはずの受験でも
受験してみれば変わる。
その日は気が気じゃなかったらしい。
――結果は学校の靴箱に入れておくからね、
と伝えたものの、
それが届かず、
――駄目だったんだぁ、
と諦めたという。
しかし担任の先生を通じて合格の連絡が入って、
それが伝えられると大喜びだった。

入学式の日。
生徒はお互いに大抵顔見知り。
この学校に入るための
受験のための専門の学習塾があって、
殆どその塾の出身生。
4年生から入塾する人もいる。
入学式の父兄の間では、
――私の子は夏、四谷大塚に通わせたのよ、
との話しが交わされていたという。
しかし見慣れない生徒を見て、
ある父兄が
――お宅のお子さんはどこの塾ですか、
と問われて、        
――どこにも・・、
と応えると唖然としたという。
受験勉強は1ヶ月半だと言えば、
さらに驚いたかもしれない。
ともあれ、
我が家の受験は
奇しくも多くの運に恵まれました。
2018.5.28

ラヴレター/浅田次郎

ラブレターといえば、
浅田次郎の短編集
「鉄道員(ぽっぽ屋)」の中にある
「ラブレター」を思い出す。
浅田次郎は小説の名手。
どんなものでも書きこなし、
重厚な長編小説もあれば、
コメディタッチの愉しい長編もあり、
そして「勇気凛々ルリの色」のように
抱腹絶倒のエッセイ集もある。
その一方で短編にも優れた小品があり、
これもそのひとつ。

主人公は新宿歌舞伎町の
裏ビデオ屋の雇われ店主。
その彼が中国人女性と偽装結婚する。
いわゆる戸籍貸しで
50万円ほどの報酬を得た。
しかし彼女との面識はなく、
ある日、千葉の警察署から、
奥さんが亡くなったから引き取りに来い、
と連絡が入る。
すっかり忘れていたその人、白蘭。
やむなく彼は房総の裏寒い海辺の街に
遺体を引き取りに行く。
クライマックスは彼女の手紙。

中国の寒村から
身売りされてきた薄幸の女性。
そんな彼女がうらぶれた街で
一面識もない彼に
ひたむきな恋心を抱く。
その手紙は2通あり、
彼女の想いが切々と綴られていました。

周りの人はみんな優しい。
けれど、いちばん優しいのは吾郎さん。
私と結婚してくれたから・・

と始まる手紙は、
彼が思いもしない気持ちが溢れていました。
戸籍上の夫婦とは言っても、
見ず知らずの他人。
亡くなったことに
なんの感慨もない、はず・・。
弔いを終え、
引き取った遺品の中には、
更にもう一通の手紙があった。
それは亡くなる日の前日に書かれたもので、
死を覚悟しながら、
彼に対する深い想いが込められ、
彼はそれを読んで思わず激昂してしまう。
人から感謝されたことのない彼が、
見知らぬ女性にこんな言葉をかけられる。
悔恨と痛切な哀惜の情。
彼女の手紙には、

大好きな吾郎さんへ。
とはじまり・・、
私が死んだら
吾郎さん会いに来てくれますか。
もし会えたら、お願いひとつだけ。
私を吾郎さんのお墓に入れてくれますか。
吾郎さんのお嫁さんのまま
死んでもいいですか。
甘えてごめんなさい。
でも私のお願いこのひとつだけです。

との言葉が綴られていく。
拙い言葉の中国人の手紙。
決してうまい文ではないが、
激しく心ゆさぶるものがある。
それが深い感動をよび、
読む人に想いを届ける。
それがラブレターというものでしょう。

原作は感動的な短編小説ですが、
映画版もあります。
中井貴一主演の映画で
多くの人を泣かせました。
韓国のリメイク版もあり、
韓国ではこちらが大ヒット、
一世を風靡したという。
しかし、こちらはおススメできない。
日本版の方が遥かに出来が良い。
これを書きながら、
あの映画をもう一度見たいと思っています。
2018.5.18

ラヴレター/父の場合

大分前ですが、
亡くなった父や母の遺品を
整理していたとき、
父のラブレターが出てきたことがあります
父の、ということは、
に宛てた手紙で、
タンスの奥に
紐にくるまれた包みにありました。
母が隠し持っていたもので、
なんとなく秘密めいた匂いがして、
それを見たとき驚きました。
読んでみると普段の父の姿から
想像できない一面もあって、
新鮮というか、
父にもこんな時代があったのか、
と感じたものでした。

手紙は30通ほど。
終戦後の混乱期で、
昭和22年頃に書かれたものでした。
戦時中、父の会社は軍需工場。
父はそのため兵役を免れていました。
その当時、父は課長職で
会社の旗振り役として陣頭指揮に立ち、
いっぱしの論陣を張っていたようでした。
その一方で繊細な面があり、
母との共通の趣味として、
音楽のことや、
クラッシック講演会をしたこと、
母のために犬を飼いたいなど、
色々なことを書いていました。
母の住まいは自宅から30kmほどの所で
父はその当時、
旧国鉄からチン電に乗り換えて
母に会いにいったことなどが書かれて、
そんな情景が眼に浮かんでくるようでした。
当時は仕事ものんびりしていたらしく、
仕事中にラブレターを書いて、
書き終えたらすぐ送るから、
と記していました。
今では信じられないことです。

父と母は見合い結婚。
その当時、父は引く手数多。
見合い写真が束になって送られ、
父はその束の中から
籤を引くように母の写真を引いた、
といったことが何かに書かかれていましたが、
それは嘘でしょう。
父は数ある写真から母を選び、
恋をしたのだと思う。
戦前、母の父親は事業を営み、
町長をする傍ら事業を営んでいましたが、
その事業は失敗。
その後は転落の人生を辿りましたが、
母は没落家系の娘とはいえ、
良家のお嬢さんとして育てられました。
多分、父は母に
粗忽な面のある自分にないものを感じて

恋をしたのだと思う。
それを読みながら、
母も手紙を書いていたはず、
それを読んでみたいと思いましたが、
とうとう見つけることはできませんでした。
聞くところによると、
父は結婚前、親しい友人に
袋にいれたものを渡して
預かってくれるように頼んだと言う。
その話を知る人は、
きっと女の人に貰った手紙だよ、
と冷やかし半分に話していましたが、
それがもしかして

母の手紙かも知れない。
今では確かめようもないですが、
そんな時代の、

淡い恋物語を見るようで、
父と母の若き時代を感じたものでした。

ラブレターは究極の手紙――
自分の切なる想いを伝えたい、
と願いながらしたためる。
それは人によって、
一世一代の事業ですが、
今やメールやラインの時代。
率直な印象として、
想いを伝える行為が
随分と軽くなったなと感じます。
書けば行間に想いが滲み、
それを相手がどう読んで、
どう感じるだろうと考えながら、
だからこそ何度も何度も書き直す。
それが本来の手紙のように思いますが、
それも今は時代遅れと言われるのでしょうか。
2018.5.16