東大は日本の最高学府。
その中でも東大の理Ⅲ、
つまり東大医学部は、
日本で最高の難易度を誇る大学で、
我々凡人には遥か雲の上。
努力しても手が届かない。
そんな東大医学部生が
私の周りに三人いました。
◆
私は学生時代に父と母を亡くし、
そのとき主治医を務めていたのは、
A先生でした。
自分が主治医を務めながら
両親を救うことができなかったし、
ご夫婦に子供がいなかったこともあって、
養子にどうだ、
と声をかけてくれたこともありましたが、
それはお断りしました。
先生は50代半ばで癌を発病し、
治療しては再発し、
また手術するという繰り返しでしたが、
その都度、医療の進歩に救われたと言います。
A先生は病院の人気者。
優しく、にこやかで、
患者は引きも切らずやってきました。
内科の担当時代は先生に患者が殺到し、
系列病院の院長として移ったときも、
大勢の患者が転院して、
赤字だった病院が黒字になった、
とのエピソードもあったほどでした。
先生は従妹と言っても
20歳以上離れていて、
従妹というより叔父に近い感じでした。
だから彼が小さい頃のことは知りませんが、
神童と呼ばれていたそうです。
そんな話をすると、
僕だって小さい頃は
泥んこになって遊んだものだよ、
と笑いながら話していました。
先生の自宅は我が家の近く。
朝は毎日、
犬を連れて散歩をしていましたが、
その犬は雑種。
私の兄夫婦が子犬の里親探しに困って
引き取ってもらった犬でした。
彼は飾らない、
奢ることのない人。
それでも総合病院の院長に
雑種は似合わないだろうと思いましたが、
そんな犬にも愛情を注いで、
子供のように可愛がっていました。
庭の中で元気に走り回れるようにと柵を作り、
家に上がっても拒むことはない。
そんなところにも
命を大切にする医者の素顔が
あったように思います。
ときおり犬と散歩する先生に
家の前で出会うことがありましたが、
そんなとき手術をした私を気遣って、
――どうだ大丈夫か、何でも言ってくれよ、
と声をかけてくれたものでした。
奥さんも気丈な人で、
毎日、家の隣にある畑で、
汗に塗れ、泥塗れになって
無農薬野菜作りに精を出していました。
若い頃は綺麗だったと思いますが、
畑仕事をしているときは、
頭から手拭いで頬被りして、
とても総合病院の
院長夫人には見えませんでした。
無農薬野菜を作るのも、
入退院を繰り返していた先生を気遣って、
――身体にいいから、
と話していました。
先生ご自身も欲のない人で、
開業すれば繁盛間違いなしと言われ、
彼の親も仕切りに開業を迫っていましたが、
そんなことには無頓着。
70歳を過ぎても病院の第一線で働いて、
――まだ働いているんですか。
いつまでも大変ですね、
と言うと笑いながら、
――辞めたいんだけど、
なかなか辞めさせてくれないんだよ。
と話していました。
周りの人は彼に一目を置いて
全幅の信頼を寄せていました。
病院経営にも才覚を示し、
多くの改革を手掛け、
病院経営の礎を築きました。
院長時代は苦しい病院経営に直面しながら、
周りの医師に対しては、
――君たちは治療に専念してくれ。
病院の運営は僕が責任をもってやるから、
と話していたそうです。
院長を退いた後も名誉院長として残り、
医師としては珍しく
一部上場企業の理事を務めていました。
そんな先生も、
亡くなる5年前に再発した時は、
もうこれまでと覚悟を決めて、
好きだったゴルフも止め、
それまでは忙しくて
奥さん孝行もできなかったからと、
その後は奥さんを連れて
海外旅行をしていました。
先生が亡くなったのは10年ほど前。
先生が亡くなった後、
ご年始に家を訪ねると奥さんに、
あがってよと誘われるまま家に上がり、
先生の思い出話を聞かせてもらいました。
気苦労も多かったと思う。
その後の数年で髪は真っ白になり、
それでもにこやかに、
アルバムを開きながら、
懐かしそうに話をしていました。
そして旅の話を聴きながら、
――海外に行っても英語には
苦労しなかったんでしょうね、と言い、
東大出の秀才に
そんなことはいとも簡単だと思いましたが、
奥さんは手を振って、
――そんなことはないんですよ。
Aは読むのは苦労しないのに、
話すのは駄目で、
学会でも通訳を使ってたんですよ。
と話していました。
海外の学会は後輩に譲り、
病院をやめた後は、
ヨーロッパといわずアジアと言わず、
ゆったりと船旅をして、
ほんの僅かな間に人生を取り戻すかのように
色々なところを旅したそうです。
彼は欲のない人。
子供はなく、
お金に執着することもなく、
多くの人の人望を得て生涯を終えた人でした。
清貧に生きる。
経団連のトップを務めた、
土光敏夫の後ろ姿がよぎります。
◆
東大の合格者数は、
開成高校が段トツ1位。
毎年150人ほど合格する。
だから開成高校が全てトップかといえば、
医学部となれば事情は別。
最近、目にした結果では、
理Ⅲに関しては開成高校の5人に対し、
神戸の灘高校が19人と圧倒的に多い。
灘は創意性と創造性を尊び、
記憶力の頭脳を求めていない。
灘の受験科目に社会はなく、
記憶に頼る頭を評価しないともいう。
そんなところが灘と開成の違いだろうか。
かつてテレビで誰かさんが、
東大医学部では関西弁が幅を利かせている、
と話していたが、
確かにそうなのだろう。
僕が学生時代の1年間、
ある団体のリーダーをしていたことがある。
リーダーは3人で、
その中の一人が先輩格の
東大医学部生のBさんでした。
その当時は灘高といえば、
東大合格者数でNo.1でしたが、
その彼が言うには、
――俺は劣等生だったよ。
と言い不思議に思って聞いていると
――高校1年の頃は100番位だったかな。
でも頑張って、
受験する頃は
20番位になっていたけど・・・、
と言う。
それを聞いて驚いた。
20番でも東大の医学部に合格する!。
灘高は凄い!と思いました。
彼もまた、優しく、奢らない人。
本当に出来る人は、
俺が、俺がと前に出ることなく、
人間もできていると感じたものです。
◆
二人の子供は、
上が高校から下が中学から
中高一貫の私立校に通学していました。
通学は2時間強。
そのときの長男の中学1年の担任は、
東大を卒業したばかりの数学の先生でした。
しかし学校が始まってすぐ、
先生の父親が亡くなり、
そのとき学年主任の先生から、
――先生は事情があって
学校を休職することになりました。
と話してきた。
暫くして先生はクラスの生徒の前に姿を見せ、
――この場で教室を去るのは心苦しいけど、
僕の我が侭を許してください。
と涙ながらに語ったそうです。
学校を去る理由を知らされることなく、
――いずれそれを話せる時が来ると思う。
とだけ言い残して教室を去りました。
その後、生徒や父兄の間では
色々な噂が飛び交いましたが、
噂の域を出ることはない。
そして新年が過ぎ3月も終わる頃、
――先生が東大の医学部に合格した。
との報が飛び込んできました。
それを聞いてみんな驚いた。
それはそうでしょう。
東大を卒業しているとは言え、
半年の勉強で
東大の医学部に合格してしまう。
実家は医者だったとの噂もある。
ともあれ亡父の意向だったのか、
本人の希望だったのか、
それはわからないが、
夢を捨てきれずに夢を追い、
夢の実現のために努力して、
それが実を結ぶ。
その後4月になって、
教え子の一人一人に思いを綴り、
長男には、
――君も自分の夢を大切にして欲しい。
とのコメントを添えられてきました。
***
東大医学部――
我々には別世界の人に見えますが、
決してそうではない。
周りにいた東大医学部生は、
みんな気さくで、
心優しい人ばかり。
話は少し飛びますが、
かつて新聞の中に
オリンピックのメダリストが
こんなことを書いていました。
――頑張れ、と言うのは簡単。
頑張れば夢は叶うと言うこともできる。
けれど現実は違う。
努力しても、
駄目なものは駄目。
能力の限界はあります。
そうした人に自分の能力の限界を
知らせること、
それも必要です、と。
人は夢を見る。
夢を実現するために頑張る人がいる。
叶う夢、叶わない夢。
いろいろあるが、
大切なことは夢を実現するために
どれだけ頑張ることができたか。
それが大事だろう。
2018.9.7