東大医学部

東大は日本の最高学府。
その中でも東大の理Ⅲ、
つまり東大医学部は、
日本で最高の難易度を誇る大学で、
我々凡人には遥か雲の上。
努力しても手が届かない。
そんな東大医学部生が
私の周りに三人いました。

私は学生時代に父と母を亡くし、
そのとき主治医を務めていたのは、
A先生でした。
自分が主治医を務めながら
両親を救うことができなかったし、
ご夫婦に子供がいなかったこともあって、
養子にどうだ、
と声をかけてくれたこともありましたが、
それはお断りしました。

先生は50代半ばで癌を発病し、
治療しては再発し、
また手術するという繰り返しでしたが、
その都度、医療の進歩に救われたと言います。
先生は病院の人気者。
優しく、にこやかで、
患者は引きも切らずやってきました。
内科の担当時代は先生に患者が殺到し、
系列病院の院長として移ったときも、
大勢の患者が転院して、
赤字だった病院が黒字になった、
とのエピソードもあったほどでした。

先生は従妹と言っても
20歳以上離れていて、
従妹というより叔父に近い感じでした。
だから彼が小さい頃のことは知りませんが、
神童と呼ばれていたそうです。
そんな話をすると、
僕だって小さい頃は
泥んこになって遊んだものだよ、
と笑いながら話していました。

先生の自宅は我が家の近く。
朝は毎日、
犬を連れて散歩をしていましたが、
その犬は雑種。
私の兄夫婦が子犬の里親探しに困って
引き取ってもらった犬でした。
彼は飾らない、
奢ることのない人。
それでも総合病院の院長に
雑種は似合わないだろうと思いましたが、
そんな犬にも愛情を注いで、
子供のように可愛がっていました。
庭の中で元気に走り回れるようにと柵を作り、
家に上がっても拒むことはない。
そんなところにも
命を大切にする医者の素顔が
あったように思います。
ときおり犬と散歩する先生に
家の前で出会うことがありましたが、
そんなとき手術をした私を気遣って、
――どうだ大丈夫か、何でも言ってくれよ、
と声をかけてくれたものでした。
奥さんも気丈な人で、
毎日、家の隣にある畑で、
汗に塗れ、泥塗れになって
無農薬野菜作りに精を出していました。
若い頃は綺麗だったと思いますが、
畑仕事をしているときは、
頭から手拭いで頬被りして、
とても総合病院の
院長夫人には見えませんでした。
無農薬野菜を作るのも、
入退院を繰り返していた先生を気遣って、
――身体にいいから、
と話していました。
先生ご自身も欲のない人で、
開業すれば繁盛間違いなしと言われ、
彼の親も仕切りに開業を迫っていましたが、
そんなことには無頓着。
70歳を過ぎても病院の第一線で働いて、
――まだ働いているんですか。
  いつまでも大変ですね、
と言うと笑いながら、
――辞めたいんだけど、
  なかなか辞めさせてくれないんだよ。
と話していました。

周りの人は彼に一目を置いて
全幅の信頼を寄せていました。
病院経営にも才覚を示し、
多くの改革を手掛け、
病院経営の礎を築きました。
院長時代は苦しい病院経営に直面しながら、
周りの医師に対しては、
――君たちは治療に専念してくれ。
  病院の運営は僕が責任をもってやるから、
と話していたそうです。
院長を退いた後も名誉院長として残り、
医師としては珍しく
一部上場企業の理事を務めていました。

そんな先生も、
亡くなる5年前に再発した時は、
もうこれまでと覚悟を決めて、
好きだったゴルフも止め、
それまでは忙しくて
奥さん孝行もできなかったからと、
その後は奥さんを連れて
海外旅行をしていました。
先生が亡くなったのは10年ほど前。
先生が亡くなった後、
ご年始に家を訪ねると奥さんに、
あがってよと誘われるまま家に上がり、
先生の思い出話を聞かせてもらいました。
気苦労も多かったと思う。
その後の数年で髪は真っ白になり、
それでもにこやかに、
アルバムを開きながら、
懐かしそうに話をしていました。
そして旅の話を聴きながら、
――海外に行っても英語には
苦労しなかったんでしょうね、と言い、
東大出の秀才に
そんなことはいとも簡単だと思いましたが、
奥さんは手を振って、
――そんなことはないんですよ。
  Aは読むのは苦労しないのに、
  話すのは駄目で、
  学会でも通訳を使ってたんですよ。
と話していました。
海外の学会は後輩に譲り、
病院をやめた後は、
ヨーロッパといわずアジアと言わず、
ゆったりと船旅をして、
ほんの僅かな間に人生を取り戻すかのように
色々なところを旅したそうです。
彼は欲のない人。
子供はなく、
お金に執着することもなく、
多くの人の人望を得て生涯を終えた人でした。
清貧に生きる。
経団連のトップを務めた、
土光敏夫の後ろ姿がよぎります。


東大の合格者数は、
開成高校が段トツ1位。
毎年150人ほど合格する。
だから開成高校が全てトップかといえば、
医学部となれば事情は別。
最近、目にした結果では、
理Ⅲに関しては開成高校の5人に対し、
神戸の灘高校が19人と圧倒的に多い。
灘は創意性と創造性を尊び、
記憶力の頭脳を求めていない。
灘の受験科目に社会はなく、
記憶に頼る頭を評価しないともいう。
そんなところが灘と開成の違いだろうか。
かつてテレビで誰かさんが、
東大医学部では関西弁が幅を利かせている、
と話していたが、
確かにそうなのだろう。

僕が学生時代の1年間、
ある団体のリーダーをしていたことがある。
リーダーは3人で、
その中の一人が先輩格の
東大医学部生のBさんでした。
その当時は灘高といえば、
東大合格者数でNo.1でしたが、
その彼が言うには、
――俺は劣等生だったよ。
と言い不思議に思って聞いていると
――高校1年の頃は100番位だったかな。
  でも頑張って、
  受験する頃は
  20番位になっていたけど・・・、
と言う。
それを聞いて驚いた。
20番でも東大の医学部に合格する!。
灘高は凄い!と思いました。
彼もまた、優しく、奢らない人。
本当に出来る人は、
俺が、俺がと前に出ることなく、
人間もできていると感じたものです。


二人の子供は、
上が高校から下が中学から
中高一貫の私立校に通学していました。
通学は2時間強。
そのときの長男の中学1年の担任は、
東大を卒業したばかりの数学の先生でした。
しかし学校が始まってすぐ、
先生の父親が亡くなり、
そのとき学年主任の先生から、
――先生は事情があって
  学校を休職することになりました。
と話してきた。
暫くして先生はクラスの生徒の前に姿を見せ、
――この場で教室を去るのは心苦しいけど、
  僕の我が侭を許してください。
と涙ながらに語ったそうです。
学校を去る理由を知らされることなく、
――いずれそれを話せる時が来ると思う。
とだけ言い残して教室を去りました。
その後、生徒や父兄の間では
色々な噂が飛び交いましたが、
噂の域を出ることはない。
そして新年が過ぎ3月も終わる頃、
――先生が東大の医学部に合格した。
との報が飛び込んできました。
それを聞いてみんな驚いた。
それはそうでしょう。
東大を卒業しているとは言え、
半年の勉強で
東大の医学部に合格してしまう。
実家は医者だったとの噂もある。
ともあれ亡父の意向だったのか、
本人の希望だったのか、
それはわからないが、
夢を捨てきれずに夢を追い、
夢の実現のために努力して、
それが実を結ぶ。
その後4月になって、
教え子の一人一人に思いを綴り、
長男には、
――君も自分の夢を大切にして欲しい。
とのコメントを添えられてきました。

***

東大医学部――
我々には別世界の人に見えますが、
決してそうではない。
周りにいた東大医学部生は、
みんな気さくで、
心優しい人ばかり。

話は少し飛びますが、
かつて新聞の中に
オリンピックのメダリストが
こんなことを書いていました。
――頑張れ、と言うのは簡単。
  頑張れば夢は叶うと言うこともできる。
  けれど現実は違う。
  努力しても、
  駄目なものは駄目。
  能力の限界はあります。
  そうした人に自分の能力の限界を
  知らせること、
  それも必要です、と。

人は夢を見る。
夢を実現するために頑張る人がいる。
叶う夢、叶わない夢。
いろいろあるが、
大切なことは夢を実現するために
どれだけ頑張ることができたか。
それが大事だろう。

2018.9.7

見果てぬ夢の先

夢は実現しないからこそ夢――、
という人もいるけれど
そうじゃないと思う。

実現しようとして頑張るから夢。
手が届きそうで、
もがいて掴み取るから夢。
あしたへの道が希望へ続くと信じるから夢。
夢にも色々あるが、
目の前にあって掴み取ろうとして、
頑張れば頑張るほど、
それを実現したとき
大きなさな感動が得られるのも夢。
夢は大望を抱くことだけが夢じゃない。
等身大の夢もまた夢で、
それを叶えることで、
ほんの少し幸せを感じることができれば、
その瞬間は夢の実現したといえる。
例えば、
あの店のあの料理が食べたい。
あの子に会いたい。
あしたはいいことがありますように
と祈りながら、
それが実現するのも夢が叶うこと。

村上春樹の言葉に
小確幸という言葉がある。
小さくても確かな幸せ。
それを積み重ねることで、
幸せは確かなものとなり、
それが多くの人にとって、
幸せといえるかもしれない。

幸せと夢―――。
夢を叶えて幸せを感じ、
その幸せを感じることが夢でもある。
自ら望むこと、
叶えられれば嬉しいこと。
それはささやかなものであっても、
手にすれば心地よく、
弾んで、輝いて、
心の中にほんのりと
優しい灯を灯すことができれば、
それが幸せと言えるでしょう。

幸せと夢―――。
それはこの世の全ての人に
平等に与えられるべきもの。
全ての人の権利として
与えられるべきもの。
けれどそうしたささやかな幸せですら、
掴みとることができない人もいる。
アメリカに住むアフリカンの人は、
かつては肌が黒いから、
奴隷をルーツとするから、
と卑下され、
それだけで人間扱いされない時代があった。
しかしそれは非黒人社会の驕り、
不遜な行為でもある。
だからこそルーサー・キング牧師は、
そうした不当な扱いを受けてきた
アフリカンのために立ち上がり、
彼らの自由と平等を訴えた。

その象徴となったのが、
ワシントン記念塔の前で行なわれた演説、
――私には夢がある(I Have a Dream)、
と始まる演説だった。
それはアフリカンの人にとって、
そして非アフリカンの人にとっても
深い感銘を与える演説でした。
それは1963年のこと。
自由と職を求めて
25万人が参加した大行進の後に、
アメリカの公民権運動の記念碑的な言葉として
歴史に刻まれることになりました。
そこでは、

いつの日かジョージア州の丘の上で
かつての奴隷の息子たちと
かつての奴隷所有者の息子たちが
兄弟として同じテーブルに着くという夢
いつの日か私の4人の幼い子供たちが 
肌の色によってではなく

その人格の中身によって
評価される国に住むという夢・・・

とあり、
これらはI Have a Dreamの言葉に乗せて語られ、
翌年には「公民権法」を成立させる原動力になりました。
キング牧師の

人間は鳥のように空を飛べ、
魚のように海を走ることが
出来るようになったのに、
なぜ兄弟として
一緒に肩を並べて歩けないのか・・

これらの言葉は切実に胸に迫ります。
人として当然与えられるべきものが
与えられない人にとって、
それは余りにも
ささやかな願いであり、
夢であり、
それを実現することは、
幸せの道をほんの半歩踏み出したに過ぎない。
しかしそのキング牧師は1968年、
39歳の若さで暗殺されました。
けれどアフリカンの人にとって、
キング牧師は彼らの英雄として、
ずっと心の中に刻まれることになるでしょう。

キング牧師

2018.9.5

Smoking Kills!!

喫煙者の肩身は
どんどん狭くなっている。
とりわけ海外の喫煙者には、
容赦ないほど厳しい。
日本では煙草がどんどん値上げされて、
今では460円になった。
それでも吸う。
非喫煙拒否症候群の人の中には、
値上げを機に止めたとの声も聞くが、
絶対にやめない、
と公言する人も多い。
それにしても
煙草を吸ってもいいことなんて何もない。
ニコチンやタールを体の中にぶち込んで、
肺を真っ黒にして寿命を縮める。
周りの人からは煙たがられ、
煙草代もばかにならない。

かく言う小生も、
かつては立派な喫煙者だった。
大学入学と同時に当然のように煙草を吸い、
最初は一日10本ほどだったが、
それでも煙草は欠かせない。
特別な禁断症状はないが、
***の後の一服という感覚はわかるし、
喫茶店では相手との場を
とりもつのに役に立つ。
煙草をやめたのは、
やめようとしてやめたわけではなく、
煙草を吸う暇がなくなったから。
仕事が忙しく席を暖める暇もない、
煙草を吸う暇があったら仕事を優先する、
という緊急事態に陥った。
それから煙草とは疎遠になったが、
それでも時々隣の人に
煙草を戴いて吸っていた。
けれど、煙草やめました!
の宣言をしたことはない。
それでも煙草を吸わなくなると、
煙草の煙がやけに鬱陶しいし、
苦痛になる。
レストランや喫茶店では、
喫煙できる店は選ばないし、
隣の人に「煙草吸ってもいいですか?」
のひと言もなく、
煙草を吸う人がいると
蹴っ飛ばしたくなる。
最低限のマナーは守るべきだ。

海外では喫煙者の立場が危うい。
イギリスでは禁煙の法制化が進んで、
煙草の値段は1500円を超える。
カフェやバーでも喫煙は原則禁止だし、
建物内も喫煙禁止。
それでも吸いたければどうぞ、
ということだろうが、
反面、そこまでしてもと思う。
喫煙しない人は眼にすることは少ないが、
イギリスで煙草のパッケージを見たとき、
Smoking Kills!、
と書いてあるのを見たときは、
本当にびっくりした。
煙草は人を殺す!という訳だ。
値上げも激しい。
オーストラリアでは
煙草一箱が2500円を超え、
パッケージには、
見るのもおぞましい絵が描いてある。
そこまでして吸いますか?
ということだ。

日本人の喫煙率も下降線を辿る。
厚生労働省のデータでは、
2000年53%、
2002年33%、
2010年24%、
2015年には19%に下がり、
成人喫煙率は確実に減少している。
煙草が値上げされるたびに
パッケージの表示が変わる。
「健康に注意しましょう」の表示から
「肺ガンや心筋梗塞の原因になります」と
語調が強められた。
それでも海外に比べればおとなしい。
最近は副流煙の表現も登場して、
被害は喫煙者だけではない、
周りの人にも悪影響がありますよ、
との被害が強調されるようになった。
飛行機の中、電車の中、レストランなど、
公共施設では煙草を吸うエリアが狭められ、
喫煙者は片隅に追い込まれてゆく。

もっと値上げすべき!と思う。
国際比較で言えば日本の煙草は安い。
イギリスなど非喫煙の進む国では、
煙草がどんどん値上げされるが、
煙草を吸う人は、
本当は止めたいんだけど、
**のあとの一服!
に誘われて遂々吸ってしまう。
だから思いっきり値上げすれば、
止められるのではないか・・。
結構そうした
煙草やめたい予備軍が
いるんじゃないかと思う。
煙草の値上げは、
地球人の健康に寄与する。
それでも煙草を吸いたい人は、
税金を納めて国家に貢献して戴く。
そう考えれば、
煙草の値上げは百利あって一害なし。
煙草の税率は高い!、
がまだまだ安い!
煙草税を80%にして、
一箱1000円にしよう。
それがかつての
煙草値上げ論争の論点でした。

煙草はかつて海外土産の定番。
マールボロやKENTなんか貰って、
オッ!洋もくじゃん!、
とか言って悦に入っていたが、
今では煙草の土産は意味合いが違う。
煙草のパッケージには、
ガンで息絶え絶えの絵があり、
それにでっかい警告文が加わる。
それも刺激的なほどいい。

娘がバイト先の人に
海外の土産に煙草を頼まれ、
それにはどぎつい絵と警告文があった。
――コレ、本当に土産にするの?
と訊いたら涼しい顔で、
――あげるよ、
健康を考えてあげてるんだ!
と話していた。
なるほどね、
それもいいかもと思った。

2018.9.3

夏の終わり

地球温暖化のせいか、
夏が暑い。
とりわけ都会の夏は、
ヒートアイランド現象もあって、
猛烈に暑い。
観測史上いちばん暑い夏、
との文言が繰り返されたが、
今年の夏は40度を超えて
観測史の記録を塗り替えてしまった。
うだるような、
焦げるような夏が来て
いつ終わるとも知れない日々が
今も続いている。

6年ほど前、
東京の病院に入院していた。
夏の半分を病室で過ごしていたので、
エアコンの利いた部屋にいて暑さ知らず。
テレビでは、
今年は猛暑の夏、
記録的な暑さですね、

と報道していたが、
そんな実感はなかった。
しかし売店に行くときは、
病院の外に出て
通路の反対側に出なければならない。
ドアをあけて建物を出ると
むせ返るような夏の熱気が襲う。
売店の前は建物の陰で、
夏の陽射しが直接射しこむことはないが、
それでも暑さは半端ない。
こんな夏の暑さは、
人間の五感を限りなく壊していく。

とはいえ夏は好きな季節。
暑い、寝苦しい、鬱陶しい。
しかしそれ以上に、
思い出を一杯運んで来る季節で、
夏には夏のノスタルジアがある。
とりわけ例年なら、
夏の終わりの切ない想いが舞い込んでくる。
夕暮れどきの蜩の声、
人のいない浜辺、
八百屋の軒先の葡萄の山。
夏が暑ければ暑いほど、
夏が楽しければ楽しいほど、
夏の終わりのノスタルジアが切ない。

少年時代の、
夏の終わりの恒例行事。
それは溜まりに溜まった宿題。
山になって待ち構え、
その宿題を前に、
またやっちまったなと思う。
夏休み前には、
しっかりと一日の計画をたて、
夏休み後半に突入する頃には、
宿題が終わっているとの妄想を抱いた。
しかし生来の怠け癖が簡単に治るはずもない。
夏は夏らしくと思い、
テレビの前に釘付けで、
午後になればプールへ、
海へとはせ参じる。
夏休みは勉強嫌いになる誘惑が多い。
少年よ遊べ、
少年は少年らしく・・。

実家は国道に面していた。
少し奥まった所に平屋の家があり、
北側に小さな川が流れて、
川沿いに家を遮る木立があった。
その中に幹幅40㎝を越える欅の大木があって、
夏になると一斉に蝉が鳴く。
多いときは二十匹を越える蝉が群がって、
その騒々しさは耳を覆うほどだった。
しかしそれが夏、
我が家の夏だった。

あの頃は夏になると蝉採りをした。
竹竿の先に針金で輪を作り、
それに蜘蛛の巣を絡めて蝉採りをする。
そんな風にして
夏を目いっぱい堪能し、
夏の終わりはツケを払うハメになる。
夏休み終了を目の前に夜も眠れず、
宿題に追われる日々を過ごしたものでした。

夏の終わりの
愉しい思い出もある。
小学5年生の夏の終わりだったと思う。
溜まった宿題を前に
憂鬱そうに頭を抱えていると、
お袋が、
――あした潮干狩りに行くからね、と言う。

耳を疑い、
ーーエッ!なに?と問い返し、
でも宿題が・・と言いかけて、
ぐっと息を呑む。
怠け癖は治らない。
勉強よりも遊び。
かくして翌朝、
日もあけやらぬ内に家を出る。
あの頃、海に向かう道は田舎道。
田んぼの畦道ではないが、
デコボコ道をひたすら走った。
当時は漁業権なんてものは
さほどうるさくなかったのだろう。
じゃぁこの辺りでと車を止め、
松林を抜けると
広々とした砂浜が広がっていた。
砂浜では漁師さんが、
大きな籠を背にハマグリ採りをしていた。
さすが漁師!
背にした籠には
たくさんのハマグリが入っていた。
夏の終わりの潮干狩り。
引き潮の浅瀬でぐりぐりと踵を回せば、
ハマグリの感触がする。
潮が引くにつれて浅瀬の奥に入り、
面白いように採れた。
やがてバケツ一杯のハマグリが採れて、
笑顔がこぼれる。
愉しい夏の思い出だった。

2018.8.31

We are the world!

同じ音楽でも
指揮者が変われば違った音楽になる。
音楽は人それぞれの感性で、
感じ方も違い、
ルールも法則もないわけで、
それこそ自分が感じたまま、
そのままといえるのでしょう。
人には人それぞれの感性があって、
それが個性であり、
魅力でもあるのですから。
僕自身も中学から高校、大学、
そして社会人になってからも
音楽が大好きでした。
音楽は悦楽ーー、
至福の時間をもたらす
最高の愉楽と思っていましたが、
いつしか仕事が忙しくなり、
音楽とは疎遠になって、
以前ほど音楽を聴くことはなくなりました。

けれど僕の底に流れる音楽好きは、
決して消えることはないでしょう。
音楽を聴けば感動に震え、
涙が溢れることもあります。
そして音楽は全身で感じるもの。
耳で聴いて、
頭で感じるだけではない、
というのが僕の音楽に対する持論です。
だから音楽を聴くときは、
できれば大音響で、
体全体で感じたいと思うのです。

最近は音楽の愉しみ方も変わりました。
高校時代から買った音楽は、
もっぱらレコードと呼ばれる代物で、
旧世代の再生機器は居間から追い払われ、
今では人目に触れることなく
ひっそりと眠っています。
最近は音楽の聴き方も
ステレオからiPodに代わり、
5チャンネルのサラウンドシステムで聴く、
というスタイルに変わりました。
さらには最近、
BOSEのsoundsportという
ワイアレスヘッドホンを贈り物で戴き、
これがかなりの優れもの。
使い勝手が良く音質も上々で
専らこれで音楽を聴いています。
とは言っても
目の前で聴く臨場感に勝るものはありません。

かくいう我が家には、
ピアノプレーヤーがあります。
子供たちがピアノを弾いていたときの名残で、
ピアノの付属品ですが、
プロの演奏家のピアノ演奏をFDで再生し、
一流のピアニストの演奏を
目の前で聴くことができます。
鍵盤が動き、
生の迫力と臨場感を味わうことができます。
それが素晴らしい。

話は逸れますが、
「We are the World」という音楽ビデオを、
レンタル店で借りたことがあります。
この曲の誕生秘話や、
背景などが盛り込まれた、
メイキングビデオ形式のVHSビデオで、
最後に曲が披露されます。
作詞・作曲は、
マイケル・ジャクソンとライオネル・リッチー。
アフリカ難民を救済するためのチャリティで、
プロデューサーは、
音楽界の巨匠・クインシー・ジョーンズ。
彼らは大勢の音楽仲間に呼びかけ、
そのひとりひとりが曲のワンフレーズ、
ワンパートを歌うというカタチで
曲作りに参加しています。
メンバーには、マイケル・ジャクソンや
ライオネル・リッチーは勿論のこと、
スティービー・ワンダー、ダイアナ・ロス、
ディオンヌ・ワーウィック、レイ・チャールズ、
ポール・サイモンなど錚々たる顔ぶれで
アメリカを代表するトップアーティストでした。

最初にこれを聴いたときは、
魂が揺さぶられるように感動し、
涙なしに聴くことはできませんでした。
この曲に込められた想いの深さ、
動機の純粋さや新鮮さ。
そして彼らは一様に、
この曲作りの動機に共感し、
無償で参加することに同意した、
と語っています。
彼らの心の熱さや
人に対する想いの温かさ。

そういったものが彼らの歌う姿に凝縮し、
見る人に深い感動を誘います。

その後もビデオを録画して
何度も聴きましたが、
ビデオシステムもVHSからDVDに変わり、
今では聴くこともできなくなりました。
あるときその曲をふと思い出して
YouTubeで検索すると、
なんとこの曲がありました。
トップアーティストが歌う姿はそのままで、
同じ曲がいくつか登録され、
アクセス数は驚いたことに
4,000万を越えていました。

今もなおこの曲が
世界中の人に愛され、

聴かれている証と言えそうです。
とは言え最近になって再びアクセスしたところ、
この映像が著作権に触れるらしい。
削除されては登録される、
といったことを繰り返していました。

2018.8.17

親父の背中

父の後ろ姿には、
いつも青春時代の匂いがした。
父は学生時代、
蛮柄気風で鳴らした一ツ橋にあっても、
とりわけ蛮勇に名を馳せたボート部に籍を置き、
専らオール片手に青春を謳歌していた。
無論、その頃の父は知らない。
しかし、人づてに聞く
父の若き日のエピソードや、
写真の中で見る父の姿は
それを雄弁に物語っている。
父は粗野で蛮柄を気取りながら、
意外に繊細な面を持っていた。
ドストエフスキーの文学を愛好し、
初任給は全てクラッシック音楽の
レコードに注ぎ込むという

音楽マニアでもあった。
ときには、クラッシック音楽会の講演も
引き受けたという。
おそらく父の魅力は、
こうした人間的な幅の広さ、
人間臭さだったのだろう。

そんな父が倒れたのは、
私が大学3年の1月10日のことだった。
母から電話でそれを告げられたとき、
強い衝撃を受けた。
父は脳梗塞のために左半身が不自由になり、
回復の見通しも覚束ないという。
母はそんな父を実によく看病していた。
母が倒れた、
という連絡を受けたのは、
それから1ヶ月ほどした2月6日のこと。
看病や気苦労が重なったためだろう、
以前の病気が再発したものだった。
その母は不運な巡り合わせというべきか、
父の隣の病室に入院した。
父に対する配慮から、
母が隣の病室に入院したことは知らせなかった。
しかし、毎日顔を見せていた母が、
急に来なくなったのを
不思議に思わないはずはない。
ーーお母さんはどうしたのか、
との言葉に最初は適当に言葉を濁したが、
しまいには返す言葉も失った。

父の様態が急変したのは、
3月28日のことだった。
母はその日、
隣の病室に慌ただしく人が出入りするのを
感じ取ったらしく、
私の顔を見るなり声もなく泣いた。
母が憐れだった。
献身的に生涯を伴にした父が
亡くなったことも知らされずに、
隣室にいるはずの父の安否を
ひたすら気遣った。

その母も看護が報われることなく、
6月20日、
その生涯を閉じた。
遂に母には父の死を知らされることはなかった。

思えば父と母は仲睦まじい伴侶だった。
決して平坦な道とはいえなかったが、
母はそれに耐えて、
強い信念で父に従った。
そして父は、
後ろ姿に人生の教訓を語った。

***

以下は長男の進学後、
大学でお世話になった方々に送ったものです。

私自身は体育会に属したことはありません。
だから、大学の体育会とはなんぞや、
ということを、
肌身に感じて実感したことはありません。
私の兄も同じ大学でしたが、
学生新聞の草分けだった新聞を編集し、
同じ立場でした。

しかし、体育会に全く無縁かと言うと
決してそうではなく、
「父」は、というより「親父」
と言った方がしっくりきますが、
典型的な体育会の学生でした。
当時はまだ東京商科大学と呼ばれた一橋大学で、
端艇部すなわちボート部に籍を置き、
青春を謳歌していました。
当時の一橋は蛮勇が集まる所、
地方の学生が参集し、
根っから蛮柄気風の校風にあって、
そのまた蛮族の集うボート部に
籍を置いていました。
腕力が取り柄の学生で
旧制中学では空手に少々手を染めて、
それを活かす道として端艇部を選んだようです。

当時のエピソードは色々あります。
一ツ橋の寮に入るや否や、
朝から妙な掛け声で
なにやらしている学生がいる。
それに気をとめて覗いてみると、
寮の庭先で空手をしている学生がいる。
それが親父でした。
田舎弁丸出し、
しかし根っから陽気な性格で、
繊細さも併せ持っていました。
しかしこの輩、
大学に入った当初は全く酒が呑めず、
呑んでは吐き、吐いては呑んで、
呑むほどに酒はどんどん強くなって、
酒豪と呼ばれるほどになったそうです。
そんな親父の酒にまつわる話も尽きず、
東京に行った帰りに泥酔し、
列車に乗り込ませたはいいが、
同行した仲間が心配になり、
荷札を付けて車掌に頼みこんだ、
という話もありました。
そして冬の寒い夜更けに道に倒れている人がいて
ーーアレ~、**さんじゃないの!、
と言いながら
抱きかかえて連れて行ったという話もあります。

そんな親父ですから
学生時代の写真も
蛮柄そのままの映像が活写され、

裸踊りをしている写真、
腹のまわりに墨で顔を描いて
仲間と車座になっている写真など、
昔気質の蛮勇闊達な気質を如実にあらわしていました。
そんな親父を支えるお袋も大変だったようです。
結婚してからも酒宴の席で
この裸踊りを披露していたらしく、
育ちのいいお嬢さんだったお袋は
ーーそれだけはやめてください・・
とたしなめたそうです。
そんな親父だからこそ、
仲間と腹を割って話し、
人の話には耳を傾けたのでしょう。
人の痛み、人の声、民意を反映する活動。
それが親父の信条でした。
だから生涯お金には疎い人生でした。
しかしそうした気風は
我が家の血筋でもあるらしく、
長男に、収入のいい仕事を選ぶなら
損保か大手銀行だよ、
と話しましたが、
収入がいいかどうかは関係ない、

とその方面には関心を示しませんでした。

従兄弟に東大医学部を出て、
地元の総合病院の名誉院長をした人がいます。
彼もまた金には疎い人でした。
私とは歳が離れていて、
すでに他界していますが、
当時の彼を語るエピソードは色々あります。
とにかく人望の厚い、
人に優しく魅力あふれる医者でした。
そんな人でしたから
彼の行く先々に患者が集まり、
親からは開業を迫られていましたが、
それを拒んで生涯、
病院の一医師として過ごしました。
院長と親父は、
家で酒を酌み交わすこともありましたが、
いつも、笑い方がそっくりだな、
と感じていました。

豪放磊落な性格。
順風満帆に生きたとはいえませんが、
自分の意志を貫き、
それを果たしてきた親父は立派でした。
その父、享年58歳、
母、53歳。
親父とお袋は私が学生時代の3ヶ月の間に、
手を携えるように他界しました。
それほど仲が良かったんだろうな。
親父とお袋の写真を見るたびに
ふとそんなことを思うのです。

2018.8.15

夏の憂い

本格的な夏の到来。
それにしても今年の夏は暑い。
夏のはじめに
西日本一帯に豪雨を降らせて
多くの犠牲者を出したかと思えば、
さらに猛暑の夏が襲い、
気象庁はじまって以来の
高温記録を更新した。
地球温暖化のせいだろう。

思い出すのは、
6年ほど前の夏。
東京の病院に入院していたが、
病院内は完全冷房。
寝苦しい夜はありませんでしたが、
病棟から一歩出ると、
むっとする熱気に包まれた。
その年はやはり
日本の観測史上、
最も暑い夏といわれ、
その暑さは半端じゃなかった。
東京の夏は暑いーー
噎せ返るような
澱んで不快な熱気。
ヒートアイランド現象のせいだろう。
繁華街の暑さは異常で、
建物内はひんやりしても、
ビルの中からエアコンの熱気が吐き出されて
湿気の篭った暑さが地面を這う。
その上、車の排気ガスや路面の照り返し、
人いきれなどが混じって
耐えられないほどの暑さになる。
そのせいか外を歩く人も
心なしか少ないように見える。
真夏の東京を用もないのに歩くのは、
絶対にゴメンだ!と思うが。
そうした暑さの反動もあるのだろう。
熱気で舞い上がった蒸気が、
午後になると
激しい雷雨となって地上を襲う。
バケツをひっくり返したような雨とは、
こんな雨のことを言う。

学生時代、
そんな雨に遭遇したことがある。
家路を急ぐ帰り道、
駅を降りて地上に出ると、
大粒の雨が、ポツリ、ポツリ・・。
雨が降ってきたな、
と思いつつ歩いていると
突然、激しい雷とともに、
バケツをひっくり返したような
激しい雨が降ってきた。

雨宿りどころではなく、
上から下までびっしょ濡れ。
どうせ濡れたんだからと
走って家路を急いだが、
服のままプールに飛び込んだ気分だった。

そうした激しい雨が、
涼感を誘うのは皮肉ですが、
真夏の雷雨の後の
夕暮れどきが好きでした。
激しい雨が埃を振り払い、
その後はさわやかな空気に包まれる。
そんな日に東の空を見れば、
七色の虹が掛けられて、
夏色の風景が、
心地よく見えたものでした。

夏の風景に似合うもの。
朝顔に、花火に、
風鈴に、麦わら帽子に、
庭に撒く打ち水ーー。
昔の人の知恵は、
目で、耳で、鼻で、
五感をフル稼働させて
夏の涼感を誘ったものでした。

夏になれば、
家の障子や襖をとりはらい、

風通しを良くして家の熱気を追い払う。
そんな家の軒先には、
夏ともなれば、
竹垣に朝顔の花が顔を覗かせていました。
涼やかなその姿は、
夏ならではのものですね。

涼味を誘う音に
風鈴がある。
ちりん、ちりんという
涼しげな音色は、
夏の風景に溶け込んでゆく。
岩手県の盛岡は南部鉄の名産地。
土産物屋には、
そうした南部鉄の風鈴が、

店の軒先に吊るされて、
涼しげな音色が夏の協奏曲を奏でている。
その色を聴き比べて、
とっておきの夏の音色を買ったものでした。
それも夏の風物詩ーー

夏は庭に打ち水をするのが日課でした。
水道の蛇口にホースをつないで
勢いよく水を撒くと、
一瞬ではあるけれど、
涼しげな風が舞い込んでくるように
感じたものでした。
昔の人の涼感を誘う生活の知恵。
そうした姿が影を潜めて、
思い返しても
かつての夏の風景は、
遥か遠くに霞んで見えます。

2018.7.30

イチロー

こんな記事が
眼に止まったことがありました。
首相官邸で、
時の首相が客人とカレーを食べながら、
傍らのグラスを指して、
――君たちはこれを見てどう考えるかね、
と質問したという。
グラスには水が半分残っており、
客人は質問の意味を理解しかねて
首を傾げていると、
――もう半分しかない、と思うか、
まだ半分あると思うか。
時の首相は、
自分への戒めとして政局に臨む心構えを、
テーブルを囲む客人に
語り聞かせたのでした。

その後、政局は二転三転しましたが、
このエピソードは、
全てに通じるエッセンスがあります。
何事も気持の持ち方――、
同じ一つのことに面しても、
過去を憂い、暗い気持に沈むか、
あるいは前を向いて
一条の希望の光として、
新たな決意を奮い立たせるのか、
全てはその人の気持の持ち方次第だと。

勝負の世界も同じ。
日々研鑚を積みながらも、
それが報われない日もあるし、
力の限界を感じることもあるだろう。
しかしそんな時も、
ほんの少し気持を前に傾けて、
自然体で肩の力を抜けば、
まわりは明るく見えてくる。
昨日よりもちょっと元気に――
朝の来ない夜はない。
どんな時も自分の力を信じ、
前向きに頑張ることが大切でしょう。

話題を変えます。
イチローのこと。
アメリカで最も有名な日本人のひとりと言われ、
大リーグで不世出の記録をたて、
プロ野球殿堂入りが話題にもなっている。
しかし2010年以来、
3割の打率は達成できず
もはや限界かと噂されましたが
44歳でもまだやれる。
彼のプレーが見たいと思っていましたが、
古巣のマリナーズに移籍して
最後のひと花を咲かせるか
と思わせましたが、
残念ながら現役を引退しました。

イチローは天才といわれ、
数々の記録を残しました。
2004年には84年ぶりに
最多安打を更新し、
2016年にMLB安打3000本を記録。
それでも彼は発展途上と言い、
努力せずに何かできるようになる人のことを
天才というのなら、
僕はそうじゃない。
努力した結果、
何かができるようになる人のことを
天才というのなら、
僕はそうだと思う、
と語る。
彼は決して天才ではない。
努力することを才能とする人。
しなやかな感性と
挑戦する志を失うことなく
絶えず進化し続けた人。
だからこそ彼は数々の偉業を成し遂げ、
世界にアピールする選手になることができた。
そんな彼について書いた一節があります。
ちょうどイチロー選手が、
大リーグでの年間最多安打を
樹立したときのこと。
あの姿を見て、
そしてそこに至る彼の姿を知って
様々な想いに駆られたものでした。

2018.7.27

******

昨夜見たNHKの
イチローという番組は圧巻だった。
イチローは無論、
大リ―グで首位打者と盗塁の
2大タイトルを手にしたイチロー選手である。
その記録、打率3割5分、盗塁56、
そして塁打数236、
これは並大抵の数字ではない。
それを達成することの凄さは、
単に、日々精進の賜物ですよとか、
やはり才能なんでしょうとか、
そんな簡単に割り切れるものではない。
数日前の新聞では、
タイトルを獲得したイチローの選手評が
紹介されていたが、
今回のタイトル獲得は、
オリックス時代に
その端緒がひらかれたと言う。
’99年の西武戦で、
ある慧眼を開いた彼は、
――自分のイメージと現実の違いが
はっきりと見えた。
誤差は修正できる。
もう迷うことはない、と。
その天啓とも言うべきひらめきは、
言葉には尽くし難い、
天性的な慧眼なのだろう。
投手の情報をインプットし、
野手の守備範囲を瞬時に判断し、
ボールを打つ自分をイメージする。
球筋、そしてバットスイングの
タイミングと軌跡。
それら全てが、
殆ど寸分の狂いもなくイメージできるらしい。
今年、11打席無安打という
不調の時期があった。
新聞は、天才もスランプか、
とか騒々しく書き立てる。
彼はこれを鬱陶しいと言い放ち、
ひたすらに打席に立つ自分をイメージし、
現実との間に誤差がないことを確信していた。
また一方、大リーグ界切っての大投手を前に
9打数1安打という記録もあった。
しかしこれにも、
――残り8打席のうち、
2打席は確実にしてやられた、と思う。
しかし、あとの6本は何とかなる、
自分のミスだ。
彼は凡打の打席も決して疎かにはしない。
常に誤差を頭の中で修復し、
失敗を糧に上質の技を磨き上げる。
天才は頗る貪欲で、
向上することに決して満足はない。
だからこそ記録は、
彼ある限り日々進化し続け、
決して停滞することはない。
彼の存在の大きさ、
そして記録の重さ、
それは記録そのものが
単に日々精進の結果ではなく、
彼の野球人生の過程で、
ひとつひとつ吟味され、
ステップを踏みながら磨き続けた
技術の集積である。
彼はぽっと出の平凡な天才ではない、
技を磨くことに、
年月の齢を昇華し続けた
希有の才能をもつ達人である。
だからこそ彼の記録には、
数字以上の凄さがある、
と思う

珈琲の香り/物語の見える風景

食を愉しむには雰囲気も大事。
レストランやラウンジの雰囲気は、
食の味を引き立てる。
ときにはカフェや
レストランの窓から見える風景が、
食を一層愉しませてくれる。
この景色、なんかいいね!――
窓の向こうに
眼を愉しませてくれる風景があれば、
料理も珈琲も美味しく感じることができる。
それで思い出す風景がいくつかある。

物語の見える風景――

松任谷由美の
歌のモチーフになった喫茶店がある。
横浜の山の手にある「ドルフィン」という店。
5年ほど前、
長男の車で偶々通ったとき、
あぁこの店がと思いながら
歌の風景がある店を通り過ぎました。

――あなたを思い出す♪
この店に来るたび
ソーダ水の中を貨物船が見える
小さな泡も恋のように消えて行った
紙ナプキンは
インクが滲むから
忘れないで、とやっと書いた、
遠いあの日

けれどこの店のソーダ水からは、
三浦岬も貨物船も見えません。
全ては空想の中の世界らしい。
それでも歌には何かを駆り立てるものがあります。

ノスタルジックな店――

新宿三越の裏手に名曲喫茶がありました。
クラッシック音楽を聴かせる店で、
いかにも昭和初期、
という匂いを感じさせました。
店内はお世辞にも綺麗とは言えない。
けれど時代を感じさせる
ひなびた雰囲気が懐かしい。
天井には古びたシーリングファンが廻り、
古いソファに、古いテーブル。
店内の食器はどれも骨董品もので、
それでもこの店が好きでした。
単にアンチックというだけでなく、
古いものから漂う時代の匂い、
背景を流れる悠然とした時の流れというのか、
そうした雰囲気にどっぷり浸って、
ひたすら音楽を聴いて珈琲を飲む。
立ちのぼる珈琲の陽炎に、
安らぎの時間を感じていました。

学生時代以後、
この店を訪れたことはありませんが、
これを書きながらふと懐かしさがこみあげ、
NETで検索しました。
今はあるはずもない、
古代遺跡ともいうべき店。
あったら奇跡だ。
ところがありました。
店は今も三越の裏手にあって、
店の名前は「らんぶる」という。
かつては地上2階、
地下2階の大きな喫茶店でしたが、
老朽化が進んで改築・改装を繰り返し、
今は1階と地下を残すだけ。
とはいえ地下には、
200席という広大な空間を有している。
僕はいつも2階にいた。
そこはレトロな雰囲気が漂って、
大好きな空間でした。
もっともNETにあるこの店は、
こんなじゃなかったなという印象で、
思い出を残す面影が懐かしい。

白いグランドピアノのある店

学生時代、
新しい店を探すのが好きで、
ふらっと店に立ち寄ることがあります。
当時は赤坂に住んでいて、
一ツ木通りを通学していました。
TBSの前にパン屋があり、
その横っちょの階段を降りて行くと
喫茶店らしきものがある。
興味をそそられて入りました。
お洒落な喫茶店――
店の奥には白いグランドピアノが置かれ、
女の人がピアノを弾いていました。
いかにも映画のワンシーンにありそうな、
優雅で落ち着いた雰囲気。
大人の世界というか、
今までにはない別世界を感じていました。
とはいえ、
店の名前は忘れてしまいましたが。

2018.7.25

中国人の爆買い

中国人は日本が嫌い。
その点について、
不思議な記事を目にしたことがある。
中国人の90%は日本を嫌っている、
との統計があるなかで、
実は中国人は日本が好きで、
中国人の多くは日本に憧れ、
日本製品の品質の良さを認め、
敬愛しているという。
それが爆買いの理由にもなっている。

こうした爆買いの現象は、
円安やビザの大幅緩和の影響もあるが、
中国人が生活の質の転換に
舵を切りつつあるためでもある。
16億の人口を抱えながらも
後進国との誹りを受けつつ、
急激な経済成長によって
日本を抜いてGDP世界二位になった大国。
そうした事情を反映して
日本に訪れる中国人観光客は急増。
彼らの目的は、
観光よりも買い物。
その経済効果は少なくないが、
その一方でこうした現象が
さまざまな波紋を投げかけている。

そもそも中国人の爆買いのきっかけは、
中国メディアによる
日本製品の宣伝によるものらしい。

日本製品は質がいいよ!
故障しないよ!
不良品も少ないし信用できるよ!と。
それまでの日本に対する報道を考えると
信じられない気もするが、
ともあれ彼らは、
中国製品を買うより
日本に行って日本の製品を買う方が

断然お得ですよと煽っている。
統計は少し古いが、
彼らの買い物人気ランキングでは、
①医薬品、②化粧品、③温水洗浄便座と並ぶ。
中国国内では、
医薬品も化粧品も
Made in Chinaは信用されない。

まがいものが多いという。
だったら日本企業が品質管理する
日本の商品を買いなさいと。

そうした風潮は、
彼らの生活に対する
認識の変化によるものが大きい。
中国はアジアの貧しい国だったが、
このところの急成長でGDPは鰻上り、
世界第二位の超大国となって、
ならばそれに相応しい国へと
国民の意識が変わり始めた。
そのお手本として
隣国・日本に眼を向けはじめ、
日本に対する報道が増えて、
多くの中国人が日本を訪れ、
日本文化や生活レベルの高さに驚いている。
これまで批判的な報道ばかりだったが、
実は日本のことは殆ど知らない。
知らないまま日本に行くと、
本当はこんな国だったと知ることになる。
それが今の中国の置かれた立場だろう。
外交はお互いの国民が、
お互いの国を理解することから始まる。
政治の表舞台で繰り広げられるものだけが
外交ではない。

その意味で日中間の本当の外交は、
端緒を開いたばかりと言えるかもしれない。

少し話は逸れるが、
中国は貧富の差が激しい。
とりわけ沿岸部と内陸部、
都市部と農村部の差は大きく、
上海や北京などの大都市周辺は
どんどん裕福になるが、

内陸部は貧困から抜け出せない。
日本に来る人は大都市周辺の人ばかりで、
内陸の農村部の人たちが
日本に来ることはなく、
年収の少ない彼らにビザはおりない。

それにしても、
人気商品のランキングで
医薬品や化粧品ならいざ知らず、
なぜ温水洗浄便座なのか。
品物はでかく持ち運びも不便。
値段も張って、
中国国内では使用に適さないものも多い。
それでも売れる。
そこには中国のトイレ事情がある。
生活水準が高ければ、
それ相応にトイレもきれいだが、
公衆トイレは相変わらずだという。
北京オリンピックなどで大分改善されたが、
ちょっと街を外れれば、
とてもとても使用に耐えられない。
鍵は閉まらず、紙はない。
便器が掃除された様子もない。
そもそもオリンピック前まで、
中国のトイレの壁には仕切りがなく、
やっと改善されたばかり。
中国人に、こんなに汚くても平気なのか、
と問うと首を横に振る。
中国人ですら
公衆トイレの汚さに辟易している。
それが日本のトイレに対する憧れにつながる。
日本では公衆トイレもデパートのトイレも
驚くほどきれいだ。

温水洗浄便座も当たり前のように付いている。
これが日本人の平均的生活レベルで、
日本人の生活に対する美学ともいえる。
見えないところへの気配りや思い遣り。
だからこそ中国人は、
温水洗浄便座に

驚愕といえるほどの反応を示す。
しかし温水洗浄便座の
トップ企業であるTOTOは、
こうした中国人の爆買いを尻目に
余り売る気を示さない。
そもそも中国は、
温水洗浄便座を設置できる環境にない。

中国と日本は電圧が異なり、
使おうとすれば変圧器が必要になる。
しかも中国は電圧が不安定で、
水は不純物が多くて詰まりやすい。
TOTOには
そうした環境に適応した商品がないし、
使用を勧めることもしない。
商品のクレームに繋がるからだという。
それでも中国人は、
この珍しい商品を隣近所にひけらかし、
自慢したい気持ちが疼くらしい。

電気炊飯器も人気商品。
ごはんが魔法のように
美味しく炊けると期待している。
しかし、買ってみて、使ってみて、
思ったほど美味しく炊けない。
それもそのはず。
中国は水が不味い、
米が不味い。
これで美味しいごはんが炊けるわけがない。
失敗から学ぶ。
中国のごはんはなぜ不味いのか。
それには物事の本質を辿ることが必要だ。
日本人の気質には品質のこだわりがあり、
完璧なまで優れたものを作ろうとする、
モノづくりの精神がある。
それは、
目に見えないところへの気配りでもある。
中国の4千年の歴史の中でも、
培うことのできなかった伝統が
日本にはある。

2018.7.11