紅葉前線

紅葉前線も
足早に里に降りて、
この辺りは11月半ばが、
紅葉の見頃でしょうか。
本格的な秋の到来です。
いつだったかラジオで
東京近辺の紅葉の見所を
紹介していたことがあって、
紅葉の人気スポットはダントツで、
青山絵画館前の銀杏並木でした。

絵画館前の銀杏並木

ドラマにも登場し、
雑誌でも度々紹介されています。
青山通りから絵画館へ向かう
神宮の杜の一角に、
この銀杏並木があります。
あの風景には浪漫がありました。
学生時代の友人は、
この通りをモチーフに曲を作りました。
なんとも不思議な旋律でしたが、
ロマンにあふれ、
この通りのイメージにあうな、
と感じていました。
青山通りに面した入り口には
カフェテラスがあります。
あのカフェの前を通るたびに、
いつも入ってみたい、
と思っていました。
青山の、
青山らしい風景の中で、
銀杏並木に面したテラス席で珈琲を飲む。
それだけでも絵になるような、
そんな浪漫のある風景に憧れていました。

絵画館前通りのカフエ

大分前になりますが、
店の前でメニューを見ながら、
高いなぁと思いつつ通り過ぎましたが、
娘に言わせると、
そんな僕はケチなんだそうです。
以前、新宿伊勢丹のデパ地下で
パリに本店のある有名なチョコレート店、
ジャン=ポール・エヴァンの前で、
そのケチ振りを披露してしまいました。
チョコレートは超ブランド品。
店の片隅には、
10人ほど入れば一杯になるような
小さな喫茶コーナーがあり、
20分ほど待って入りました。
ケーキは600円ほどでしたが、
紅茶は1,000円。
紅茶だけにしようとしたら、
――ケチなんだから、
と言われて渋々ケーキも注文しましたが、
食べて納得。
このチョコレートケーキは絶品!
濃厚で深い味わいは、
舌を巻く美味しさでした。
――美味しいものには金をかけよ、
     食を愉しみなさい、
と娘が食の哲学を説いて諭すのでした。

紅葉の名所ランキングには
母校の銀杏並木が登場しました。
あの銀杏並木は懐かしい匂いがします。
紅葉の季節は少し後でしょう。
駅から校舎に向かう通りの両側には、
銀杏の巨木が覆う。
黄色く色づいた銀杏の葉が舞い、
大学へ向かう通りを埋め尽くす。
学生たちは足早に、
銀杏の葉をきゅっきゅっと
踏みしめながら歩いてゆく。
銀なんの匂い、
夕陽に染められて舞い落ちる銀杏の葉。
秋の風景のひと駒でした。

母校の銀杏並木

札幌に行った時の紅葉も見事でした。
ホテルの近くに中島公園があり、
公園のもみじの葉は燃えるような赤。
本当に見事な紅葉でした。

札幌中之島公園

紅葉の風景を思い浮かべながら、
玉川上水を思い出しました。
娘は大学時代、
小平市に住んでいたことがあって
付近には玉川上水が流れていました。
玉川上水といえば、
太宰治が入水自殺をした川としても
有名ですが、
東京にもこんな所があるのか、
と再認識させられました。
川にそって遊歩道があり、
鬱蒼としたナラやブナの木に覆われて、
歩けば、さくさくと
木の葉を踏みしめる音がする。
小道の途中には絵を描く老人の姿や、
犬と散歩する親子連れがいる。
秋深い季節――、
心が癒され、
自然の美しさが、
しっかりと胸に刻まれる光景でした。

しかし後日、
テレビでこんなニュースが
流れていました。
場所はあの場所。
武蔵野の面影が残るこの風景に、
異論を唱える人がいる。
それは川沿いに住む人たち。
紅葉の季節が終わり、
枯葉が舞う季節になると
格闘が始まるという。
庭先にはうず高く枯葉が積もり、
雨樋は枯葉が詰まって機能しない。
そんなことがあって
市に何度も、
何とかしてほしい、
木を伐採してほしいと陳情するが、
自然の木を伐採するのは忍びない、
と役所も重い腰があがらない。
住民は怒り、
業を煮やしていると言います。
しかし自然の景観は都市の財産。
住人の悩みもわからなくはないが、
武蔵野の風景は東京の貴重な財産。
人が自然と共生し、
共存することでその景観が守られ、
人の心が癒されて、
潤いを与えてくれる。
住民の暮らしに弊害はあるのだろう。
けれど東京に住みながら、
そうした自然の景観に恵まれて、
それが実感できることは、
とても幸せなことではないのか、
と思うのです。
2018.11.7

Happy Wedding!

7年前の11月、
名古屋で結婚式がありました。
結婚式に招待してくれたのは、
子供たちが小さいころ、
ある活動を通じて知りあった家族で
ご主人は当時、
大手損保に勤務し、
いわゆる転勤族。
最初の赴任先である九州を起点に、
関西や信越、
そして我々の住むこの地に赴任して
知り合うことになりました。
ご主人は仕事優先で帰宅も遅い。
見知らぬ土地で、
奥さんは娘二人とともに
新たな赴任地で
新たな繋がりを求めて
娘二人をこの団体に参加させ、
それを通じて出逢いました。
その後、地元に住んで
家族ぐるみの付き合いが続きましたが、
3年ほど後に九州へ転勤。

しかしその後も交流は続いて、
転勤後20年を経て
8年ほど前から子供たちの結婚が続く。
そのたびに京都へ、名古屋へ、
そして東京へと、
家族全員を結婚式に招き、
招かれて、
そのたびに再会して、
旧交を温めてきました。

付記した手紙は、
彼らの娘さんのひとりに
懐かしい日々を思い返して
祝福の手紙を送ったものです。

2018.11.5

***

Yちゃんへ
Yちゃん、ご結婚おめでとう。
お母さんの足もとで纏わりついて遊んでいた
あのYちゃんが、
もうそんな年頃になったんだね。
Yちゃんのご家族が九州に引越ししたのは、
もう15年以上前になるだろうか。
思い返せば、
私たち家族が一緒に過ごしたのは、
たった3年ほどのことで
けれどその3年はとても濃密で
生涯、忘れることのない
大切な思い出になりました。
Yちゃんのご家族とは
裏磐梯に一緒にキャンプに行って、
星空のもとで
夜遅くまで語り楽しく過ごしました。
キャンプ場には、
それこそたくさんのテントが、
肩を寄せ合うように並んで、
ランプの灯りが
不思議な余韻を醸し出していました。
あの夜の満天の星空、
今でも懐かしく思い出しますよ。
Yちゃんは食事の支度をして、
バーベキューを頬張りながら
笑って、遊んで、愉しそうにしていましたね。
あの頃、我が家の二人の子供は、
お二人にとても仲良くしてもらって
兄弟以上のお付き合いをさせてもらいました。
そして会えば今でも、
以前のように親しくして戴いて、
友達っていいもんだなと思っています。
これからもよき友人でいてください。

結婚式での、
Yちゃんのウェディング姿、
素敵でしたよ。
嬉しそうなYちゃんの笑顔が、
とてもまぶしく見えました。
教会のチャペルで、
Yちゃんのウェディングドレスの
ベールをあげるお母さまの姿が、
心なしか緊張して、
その姿に娘の幸せを願う母の想いが
重なって見えました。
そしてお父さまの、
Yちゃんの腕を抱いてバージンロードを歩く、
緊張した姿が印象的でした。
披露宴での趣向を凝らした色々な仕掛けは
お姉さん譲り、
Y子ちゃんのアイデアが一杯引き継がれて
心に残る結婚式でした。
その中でもとりわけ
Yちゃんのご両親へのご挨拶は、
深く心に滲みました。
Yちゃんは手紙を読みはじめた、
そのときから、
すっかり涙目で、
すぐ横でY子ちゃんは、
ハンカチでしきりに涙をぬぐっているし、
Mは正面の席でぼろぼろ涙を流し、
周りをみてもみんな、
眼にいっぱい涙をためている。
私は、平気な顔をしていたね、
といわれたけど、
決してそんなことはありませんでした。
心の中はぐすんとして、
すっかり涙でぬれていました。
いろいろな思い出が蘇って、
いろいろな想いがよぎって、
感動のあふれる瞬間でした。
心を込めたYちゃんのメッセージ、
ご両親にもしっかり届いたと思います。

これからはYちゃんの世代です。
ご両親は子育てという
大きなひと仕事を終えましたが、
それを次の代に引き継いでいくのは、
Yちゃんたちです。
お母さんに教えられたこと、
お父さんの背中を見ながら学んだこと、
そんなものを心に刻んで
これからの道をしっかり歩いてください。
ちゃん、
思い出に残る
素敵な結婚式をありがとう。
MS君はきっと、
Yちゃんを大切にしてくれる人です。
結婚式で、そして次の日に、
いろいろお世話をして戴いて、
それをしっかり目にとめてきました。
Yちゃん、
いつまでもおしあわせに。
そして、
旦那さんのMS君とともに
温かい家庭を築いてください。
**のおじちゃんより。

川のある風景

私の家は小さい頃、
東側は国道に面していました。
家の北側は太い幹の欅をはじめ、
椿や何やらの雑木に幾重にも覆われ、
防風林の役目を果たしていました。
平屋の母屋の西側には、
殆ど一軒家に見えるほどの
二階建ての物置があり、
僕らの秘密基地でした。
さらに西側には
雑木を交えた竹林があって、
おもちゃの銃を持って
近所の子供と戦争ごっこをして
遊んだものでした。

雑木のある北側の道沿いに
川幅僅か40cmほどの小さな川があり、
山の上から降りて、
国道に沿って右に折れ、
やがて側溝となって流れていました。
地図にも載らない小さな川。
せせらぎと呼べるほどの浅瀬もなく、
道路に沿って流れるだけの
小さな川でしたが、
小さな僕らにとって立派な遊び場でした。
僕らの川遊びは、
紙で作った船の船下り。
新聞の折込み広告などで船を幾艘も折って、
それを並べて
近所の子供と競争しました。
手織りの船が手から離れて漕ぎ出すと
我先にと走り出して
眼の色を変えて、
ガンバレ、ガンバレ!――
の声を張り上げていたものでした。

水のある風景は、
人の心に潤いと安らぎを与えてくれます。
川は自然の恵み。
の物心がついたばかりの頃は、
この小さな川にも蛍が舞っていました。
周りにはオカボと呼ばれる
陸稲が青々と育ち、
夏になれば、
川辺にたくさんの蛍が乱舞していました。
ほ~ほぉ~ッ、ホタル来い・・、
そう呼びながら手のひらに蛍が舞い、
その淡い光を
不思議な気持ちで眺めていました。
暗い闇を覆う光の舞い。
それは子供心にも神秘的で、
美しい光の舞いでした。
それは蛍の恋の鞘当ての瞬間。
残されたほんの少しのあいだに、
生命の糸を紡ぎ出す瞬間。
青白い光を放ちながら舞う姿は、
夏の風情を醸し出していましたが、
その数も年々減り、
やがては川の瀬の葉陰に
僅かばかりの青白い光りを
残すほどになっていました。

その川では、
どじょうが採れたことがありましたし、
しじみが採れたこともありました。
我が家では、
板塀の下から流れを引き込んで、
小さな堀の中に川の水を貯めていました。
あるとき、
その小さな堀の中に
大量のしじみがあるのを発見しました。
歓声をあげながら、
ざるで掬いあげるように採る。
泥を掘り返せば、
ざくざくと音をたてるほど、
しじみが採れました。
しかしその不思議な体験も、
乱獲のためか瞬く間に終わりました。
しじみの大漁に沸いたのは、
ほんのひとときで、
束の間の夢と潰えました。

川は神秘を誘い、
僕らの小さな冒険心をかきたてます。
それは川の浪漫――
この川がどこから来て、
どこを流れているんだろう。
そんな気持ちが膨らんで、
川の源流を求めて
山に登ったことがあります。
その当時は山の手に団地はなく、
山に登るほど、
細い川はやがて
森の中を流れるせせらぎになり、
川底に大きな石を転がした渓流に変わる。
それを辿りながら
ひたすら山を分け入りました。
途中には山の斜面に
清水が湧き出るところもありましたが、
川の両側は深い森に変わり、
行けども行けども、
川の源流に辿りつくことはなく、
諦めて引き返しました。

それでも、
川のある風景は心が和みます。
川と戯れ、
水のある風景に心を癒し、
自然の恵みを実感します。
しかしその川も、
道路が拡張されると
いつしか蓋に覆われて、
姿を消してしまいました。

2018.10.29

早慶戦の記憶

早慶戦――
早稲田と慶応が対戦すれば、
なんでも早慶戦ですが、
その名に相応しい早慶戦はやっぱり、
六大学野球の最終戦を飾る早慶戦でしょう。
慶応の学生は、
自らの大学を「塾」と呼び、
学生を「塾生」と呼ぶ。
そして、慶応では早慶戦ではなく
慶早戦と呼ぶ習わしがあります。
けれど語呂がよくないせいか、
一般的ではない。

塾生としての想いは、
六大学の早慶戦に原点がありと思う。
10年ほど前、
鳴り物入りで加入した、
ハンカチ王子こと齋藤投手の登場で、
六大学野球が俄然注目された。
そのとき応援席は
入りきれない早稲田側応援団が、
慶応の応援席を占拠したらしい。
早慶戦の熱気は結構ですが、
少し過熱気味ではと思う面もありました。
齋藤投手の加入で
六大学の、
とりわけ早慶戦の呼び水に
なるかも知れないと思いましたが、
それに先立つ2年ほど前は、
久々に慶応が優勝をかけて
早稲田と対戦しました。
ならば、とテレビを見ると
広いスタンドに人はまばらで、
これが伝統の一戦かと目を疑いました。
かつては日本中を沸かせ、
日本スポーツ界の雄だった早慶戦。
それを知る人にとっては、
なんとも寂しい光景だったと思います。

僕自身も早慶戦の黄金期に
大学時代を過ごした一人でした。
慶応は山下・松下を手駒にして
上位を占めて3連覇を目指していました。
優勝を賭けた早慶戦のその日、
神宮の杜は早稲田と慶応の
あふれんばかりの学生で
スタンドが埋め尽くされました。
早慶戦は弱い方が勝つ、
とのジンクスもある。
この一戦に負けてなるものか、
との闘志も漲る。
そうした熱気はグランドだけでなく、
応援席からも伝わってくる。
慶応の声を嗄らしての応援に
早稲田が応える。
数で勝る早稲田の応援席からは
地響きがするほどの、
ウォ~!!っという
大歓声が押し寄せる。
その声に圧倒されながら応援を返すものの
あの蛮声に圧倒されっぱなしでした。

ともあれ、
試合が終わればノーサイド。
互いの健闘を称えながら校歌を斉唱。
早稲田は「都の西北」を、
慶応は「塾歌」を。
その歌を口ずさむとき、
ふと学生時代のあの頃を思い出します。
アフター早慶戦という言葉はないが、
一般学生の早慶戦の愉しみに
これがありました。
ワールドカップの日本勝利の後、
六本木に繰り出した
サポーターの熱気が重なります。

早慶戦の夜は、
銀座と新宿であの熱気にあふれていました。
同じ僚友同士、
互いに顔は知らなくても、
同じ大学の学生と知れば、
肩を組み、応援歌を歌い、
握手をして別れた。
ライオンビアホール、
数寄屋橋ビル屋上のビアガーデン。
少し肌寒い天気も気にせずに、
大ジョッキを抱えて飲む快感は
この上ないものでした。
そして日比谷公園に繰り出して、
アベックを蹴散らして応援歌を斉唱。
今思えば若気の至り。
愚かしいことではあるけれど、
かの福沢先生だって、
それくらいのことはしていた。
銀座通りを歩けば、
学生に気軽に声をかける先輩がいて、
――おぉ~、慶応勝ったか!
と気前よく1万円札を差し出して、
――これで呑め!という人もいたとか。
そんな時代の、
早慶戦の風景が懐かしい。

早慶戦の季節がやって来た。
10月最終週の週末は、
六大学の最後を飾る早慶戦が
神宮の杜で行なわれます。
100年以上の歴史があり、
近代日本のスポーツの原点は早慶戦にあり、
ともいわれて、
かつてはスポーツの花形でした。
早慶戦の起源は明治36年。
学生野球の草分けだった慶應が、
早稲田の挑戦を受ける。
そしてその日、
早稲田は所沢から三田までの13kmの道を
下駄を踏み鳴らしてやって来たという。

今では、
当時の華やかなりし時代の
早慶戦の面影は薄れましたが、
僕らの学生時代も慶応野球部の黄金期。
3季連続で優勝し、
誇らしげに銀座界隈を歩きました。
早慶戦の思い出は尽きない。
なんといっても
スタンドの熱狂が忘れられない。
神宮の杜には立錐の余地もないほど
大勢の観客が押し寄せ、
その数5万人と言われました。
早稲田は慶応を倒すことに闘志を燃やす。
互いの優勝を賭けた
一戦であればなおのこと、
相手の優勝を打ち砕こうと血気がはやる。
互いの応援合戦。
早稲田は学生数では倍近く、
多勢に無勢。
それでも声を張り上げて、
ありったけの応援を繰り返す。
応援指導部のリードで
三角帽をメガフォンにして、
試合が終わる頃には喉もがらがら。
声も出ませんでした。
試合後は慶應は銀座、
早稲田は新宿に繰り出す。
銀座ライオンのビアホールでは、
ピッチャーサイズのジョッキ片手に一気飲み。
それを3杯飲みほして
酩酊状態で日比谷公園に向う。
二人連れのしんみりした雰囲気の中で、
それを壊すのが早慶戦の夜の儀式。
学生は日比谷公園に乱入して、
噴水の前で新入生を担いで放り投げる。
ところが余りにも元気がいいので、
所轄の築地署から、
銀座は学生の町ではありません、
世界の銀座です!、
ときついお叱りを受ける。
その後は学生部の教官が、
日比谷公園を見下す帝国ホテルの一室に陣取って
――悪い学生はいないかぁ~!
と望遠鏡で見張り番をしていたとか。
学生の歓声は銀座通りを闊歩し、
袖振り合うも他生の縁で、
道行く同好の士に声を掛け、
勝利の歓喜を分かち合う。
懐かしい早慶戦の、
夜の銀座の風景でした。

あしたは早慶戦です。

2018.10.26

夢のあとさき-3

◆A高校の監督への手紙

A高等学校バレー部監督 A 様

拝啓
A高校バレー部の推薦については、
特段のご配慮を賜り誠に有難うございます。
本件につきましては、
最後の判断を本人に一任することにしました。
A高校で精一杯バレーに打ち込むのもよし、
当校に残るのもよし。
そして監督からお話しを頂いて以来、
彼は彼なりに迷い、
悩みました。
多くの方々との相談もしました。
その反応は人それぞれですが、
Aに行くべき、
との答えが圧倒的に多かったように思います。
しかし本人が最後に得た結論は、
当校に残る、
というものでした。
監督には特別の評価をいただき、
最大限の誠意をいただきながら、
ご期待に沿えないことは
心苦しい限りですが、
ご容赦いただきたいと思います。

今更という話しにはなりますが、
本人としては、
監督に自宅に来ていただいて
監督の話しを聴き、
監督のお人柄に触れ、
大いに心動かされました。
そして、バレーをする者として
春高バレーやインターハイでの優勝は、
夢のまた大きな夢となりました。
親子ともどもA高校に訪れたときも、
格の違うレベルの高いバレーを見せていただき、
先輩とも一緒にやれそうだ、
との感触をつかんで帰ってまいりました。
私が本人から話しを聞いた感触も、
本人の気持ちは大きく
A高校に行くことに傾いているように見えました。
それほどにA高校でバレーをすることは、
一種の憧れにも似た
大きな期待を抱かせました。

しかし彼には学校に
バレー部の仲間がいて、
クラスの友人がいて、
なによりも校風を気にいっていました。
そしてまた人生の選択肢として、
バレーを最優先にすることに
一抹の不安を抱いているようでした。
大学は自分の目指す大学で、
自分の目指す道を進みたい、と。
自分自身のバレーに賭ける夢と、
そして仲間や友人との
別れがたく絶ち難い思いや、
進路の迷いとの狭間で
彼の気持ちは大きく揺れ、
迷いは一層広がっているようでした。
とは言え答えを先延ばしして、
先生方にご迷惑をおかけしないためにも、
早めの決断をしなければ、
との気持ちに迫られていました。
そして先日、
その決断をさせていただいたわけですが、
なんとも切なく、
心苦しい返事をしなければならないことを
お許し願いたいと思います。
私たち両親や彼の姉も、
彼が春高やインターハイで優勝することを
心密かに夢見ていましたが、
それも夢は夢と淡く消えたようです。

ともあれ、
高校バレー界のトップの監督に
大きな評価をいただき、
彼の大きな自信にもつながったように思います。
そしてA高校の選手たちの
溌剌としたプレーを見せていただき、
春高での優勝は間違いない、
と確信しております。
そして良き選手、
良き指導者に恵まれて、
今後もA高校が高校バレーの第一線で
活躍されることを固く信じております。
御礼方々、お詫びを申しあげ、
今後の皆様のご活躍を期待し、
ご報告と致します。
本当にありがとうございました。
                敬具
***

後日の手紙

◆A高等学校バレー部監督  A 様

春高バレーの優勝
おめでとうございます。
過日、貴校のバレー部を
ご推薦いただいた**の父兄です。
先ほど代々木会場で観戦している家族から
A高校が圧勝した、
との報を受けました。
監督が先日話されていた、
――今年は優勝を狙えるチーム、
との宣言どおり、
優勝を果たすことができ、
本当におめでとうございます。

そして奇しくも決勝の対戦相手はC高校。
お話があった折り貴校をお訪ねして、
練習試合を見せていただいたのが
C高校戦でした。

優勝の経験がないとは言え、
**県を代表するチーム。
その時は2セットを観戦させて戴き、
終始試合を圧倒しているのが印象的でした。
その時の印象が強く、
A高校の優勝は間違いなし、
との確信を抱いておりました。
昨日のテレビ放映では、
あの時、あの場所でお会いし、
声をかけていただいたD選手や、
E選手たちを見て、
不思議な懐かしさを覚えました。
そしてD選手の
――胴上げして監督の最後を飾りたい、
との言葉に、
果たせれば監督冥利に尽きるだろう、
との想いを深くしました。
練習は厳しいが優しい監督。
監督はあの時、選手たちを評して、
――本当にいい子たちですよ
と語っていた言葉が、
なにかしら心に深い余韻を残しました。
選手たちを、
単に選手や生徒としてだけでなく、
我が子のように温かい眼で
接しておられる一面を見た気がしました。
そしてA高校は「和を以って尊しと為す」。
厳しさの中に、心を接し、心を砕いて、
チームワークを育てる。
それが圧倒的な強さの秘訣だろう、
と確信しております。

いずれにせよ、
A監督自らの手で、
A高校バレー部の伝統を築き、
良き選手に恵まれ、
高校バレー界の未来永劫に残る
素晴らしい実績を残され、
A監督の、監督としての
最後の花道を飾るにふさわしい、

清々しく、さわやかで、
最高に感動的な瞬間であったように思います。
本当にご苦労さまでした。
試合に参加した選手たち、
試合を見ている人たちの、
一人一人の熱い想いが伝わってくるようでした。
そして今後とも伝統のA高校のため、
バレーボール発展のために
ご尽力されることをお祈りしております。
敬具

***

後日談があります。
その後、インターハイが当県で行われ、
高校バレーの決勝戦が行われました。
そのときの決勝戦にA高校が出場し、
長男と観戦に出向いたとき、
A前監督はベンチにいて、
観客席にいる私たちに気付き、
試合後、挨拶にやって来ました。
そして長男に
――どうだ、今からでも遅くないぞ。
 ウチに来ないか、と言い残し、
その日の夜、
B高校の監督や選抜チームの父兄を通じて
再び誘いの電話がありました。
このときも多少の迷いはありましたが、
結局は辞退。
長いAとの蜜月は終わりました。

彼の高校のバレーの成績は、
それに先立って行われた県予選で、
4校ある強化指定校の一角を崩して
3位になりましたが、
インターハイ出場はなりませんでした。

2018.10.5

夢のあとさき-2

夢の続き――。
高速道路を走ってA高校に向かう。
結論は本人次第。
とは言っても当の本人が迷っている。
それはそうだろう。
同じ立場なら誰だって迷うかもしれない。
インターハイで優勝する夢、
大学進学に託す夢。
それを天秤にかけるものの
インターハイ優勝は、
大きな夢になるに違いない。
しかし中高一貫校で仲間や友人に恵まれ、
校風に魅力を感じている。
とすれば、別れがたく絶ちがたく、
迷いを振り切ることもできない。
しかし、目の前で見るA高校の練習は
インパクトがあった。
これまで見てきた練習とは、
レベルが違う、格が違う。
高さ、パワー、技術力。
そのいずれをとっても最高のレベルで、
春高で優勝が狙えるというだけあって、
段違いの強さを見せていた。
当面、夢は夢、
夢のままで終わるかも知れないし、
あるいは夢を追って
夢の続きを見るのかもしれない。

その日、監督は新たな提案を持ち出した。
特待生として学費免除、寮費免除。
それは良くある話しだが、
公立校はそれ以上の特典は難しい。
けれどA高校には伝統があり、
後援会組織もしっかりしているという。
――他の選手には内緒なんですが、
と切り出し、
――生活費を援助します。
  実は後援会でも、
  それだけ有望で成績も優秀なら、
  生活費を出しますよと言っています。
しかし最後の判断は本人に委ねた。
その後、親として色々な人に相談した。
その結果は、
――スポーツ選手は怪我をしたら終り、
という声もあったが、大半は、
――是非行くべき、またとない機会……、
というものだった。

少年の夢、人生の岐路――。
この選択はいずれを選んでも
後悔はないように思えた。
志望大学に進学するのも夢なら、
バレーで高校日本一を目指すのも夢。
いずれが大きな夢になるのか、
との選択肢でもない。
賭ける夢の比重が、
彼にとってどちらに傾いているのか。
それだけだと思う。
けれど彼の最後の選択は、
――今の学校に残る、
というものでこれもまた意外だった。
彼の気持ちは、
Aに行くことで固まっていたように見えた。
しかし夢が途絶えたわけではない。
高校で仲間とともに夢を追い続ける、
それも大きな夢――。

しかし断りの電話は、
胸が痛むような思いがした。
それまで一日に何度も電話をかけてきて、
あれだけ心待ちにしている監督に
手紙だけでは、と……。
監督が返事を待って、
気が気でない様子はよくわかる。
それだけに、
なるべく早く返事をしなければと思っていたが、
それが断りの電話だと気が重い。
監督の自宅に電話して
弾んで応対していた声も、
それが断る返事とわかると気落ちして
どんどん声が沈んでいくのがわかった。

あの監督が誠心誠意、
選手に接していたのはよくわかった。
は公立高校。
無論、寮はない。
そこで監督自ら中古の一軒家を借りて
選手が10人ほど寝泊りしている。
選手は総勢20人。
いわば年中無休の共同合宿所のようなもので、
手狭ではあるが、
あれはあれで結構楽しいのだと思う。
朝食は監督の奥さんが毎日作りに来る。
夕食は近くの食堂と契約して、
自由に食事ができるようにしている。
公立の高校としては、
選手を養成する場の提供方法として、
これが精一杯かもしれない。
監督は温和で面倒見がいい。
――みんな、いい子たちですよ。
と言う顔もどこか好々爺として、
先生と生徒、監督と選手という枠を越えて、
選手ひとりひとりと我が子のように接し、
面倒を見ている。
それでも選手を見る眼と、
育てることには絶対の自信を持っていた。
しかし大学進学については、
**はスポーツ推薦の枠に組み込まれる。
**も体育学科系に入ることになる。
結局は教師の道という選択肢に
限られるかもしれない。
それが最後まで迷いの原因にもなりました。
2018.10.3

夢のあとさき-1

長男は小学校では、
サッカーのスポーツ少年団に属して
サッカー少年だったが、
中学入学と同時に、
バレーをしたい!と言う。
入学した中学にサッカー部はない。
背が高いからいいんじゃないか、
と軽く考えて背中を押したが、
それから様々なドラマがありました

大きな変化は、
中学3年で全国大会の
県代表選手になったこと。
それまでの部活とは違い、
県内の有力選手が集まって、
週末には集中的に練習し、
県内のトップ高校との練習試合もある。
背が高いだけで
レギュラーとして使ってもらえるのかな、
と疑心暗鬼だったが、
選手はそれぞれ
プレッシャーを感じながらも、
楽しく練習をしているようだった。
しかしその年の年末に行われた
県対抗の全国大会ではグループ戦で敗退。
それでも大会後、
12人の優秀選手賞の一人として選抜された。
8月にチームを結成して以来、
約5ヶ月の間に
スポーツ界の裏事情を垣間見た気がした。

一流選手を目指すには、
それ相応の道がある。
強豪校と呼ばれる学校で
レベルの高い選手にもまれながら、
良き指導者の指導をあおぐ、
それも必要なこと。
このとき参加した県代表選手の半数は、
チーム結成時にはすでに
インターハイの強化指定校への
推薦を決めていた。
その翌年は地元県の主催で
インターハイが行われる。
地元の開催とあって
県内の強化指定校として4校が選ばれ、
選手は次々に指定校への推薦を決めていた。
特待生として合格が保証され、
休日には合宿が組まれて、
試合を目前にすると
平日も練習する日が続く。
練習は大学リーグのトップ校や
県外の高校でも行われた。
長男も県内の高校に遠征に行くたびに、
入学の勧誘があった。
バレーセンスがいいと言われ、
もったいないと言われた。
それでも長男は中高一貫の私立校に在籍し、
試合後は勉学に励むことになる。
大阪での大会が終わり、
バレー漬けの日々に終止符を打つ。
そして長男にとっても
最初にして最後の大舞台となるはずだった。

しかし、意外なことが起こった。
年末の試合を終えて、
お屠蘇気分も抜けない1月7日、
高校の監督から自宅に電話があった。
――A高校のBと言いますが、
  一度会って戴けませんか……
選手を勧誘する電話だった。
A高校は春高バレーやインターハイで
優勝実績のある全国屈指の強豪校。
しかし長男は併設の高校に
進学することを決めていたので
固辞するつもりだった。
とはいえ、
――会うだけでいいですから、
との再三の誘いに
――会うだけ……、
と応じることになった。
3日ほど後の夜、
監督が自宅に訪れた。
第一印象は好印象。
誠実で人柄の良さを感じた。
――**君に是非うちに来て戴きたいのですが……。
おもむろに話す前に答えは決まっていた。
――実は**君のことは、
  K高校のC監督から聞いたんです、
と切り出した。
年末の大会にも足を運んで試合を見たが、
選手個々人の印象は薄かったという。
――ではなぜ?・・、と訊くと、
――C監督から、
  うちで是非欲しい選手だったんだけど採れなくて。
  Aだったら来てくれるかも知れない。
と話したそうだ。
練習でもC監督は、
――とにかくバレーセンスがいい、
と折りにふれて誉めていたが、
A監督はそれに
――**君は骨格と顔つきがいい。
  プレーを見なくても素質はわかる、
と言う。そして、
――大学はどこに行きたいの。
と訊くので長男は、
――**……、
と低い声で答えた。
意外だった。
大学の志望校は国立の理系、
エンジニア志望でTK大だと思っていた。
それを聞いて監督は、
――**か・・、**は駄目なんだよね。
  あそこは採らない……
と呟いて、
――**か**だったら何とかなるんだけど・・、
と話す。それを聞いて、
――えっ、そんなことできるんですか?
と応えた。
中学で大学の進学先も決まる、
そんなことってあるんだろうか。
バレーのトップ校なら
そんな伝手があるのかも知れない、
と思いながら半信半疑だった。
A高校は高校バレー界のトップ。
高校日本一も夢じゃない・・。
監督もまた、今年は優勝が狙えるチーム、
と話していた。
答えを保留して、
とりあえずAの練習を見に行くことにした。

2018.10.1

中秋の名月

秋の風物詩ーー
と言えばお月見でしょう。
中秋の名月は旧暦の8月15日。
年によっては、
9月初めから10月初めまで
1ヶ月の幅があるが、
毎年、同じ月を見るのに、
どうしてそんなに違うのかな、
と不思議に思ったものでしたが・・。

中秋の名月は
ススキ取りにはじまる。
小さい頃、
お月見の日になればお袋に
――しっかりしたススキを取ってきてね、
と言われて裏山に上り、
ススキを取りに行ったものでした。
それを花瓶に挿して
おはぎや果物を膳に並べ、
縁側にお供え物をする。
せっかく並べたお供え物も
月が見えなけりゃ台無し。
月が昇らないうちから
東の空を眺めては、
――今日は大丈夫かなぁ、
とそわそわしたものでした。

僕が子供の頃、
お月見泥棒というのがありました。
お月見の日は、
お供え物を盗んでもよいとされて
それが許される日でした。
隣の家に忍び込んで、
お供え物の団子を盗もうと
人目を盗んで
その隙を伺いましたが、
一夜限りの盗みのスリルは
有言不実行。
サスペンスの世界で
英雄になることはできませんでした。

あの頃の家は、
今では全く面影をとどめていませんが、
道路沿いに塀を構え、
古びた平屋の家があって、
南側の庭に面して広縁がありました。
そこにお月見の品を並べる。
月は東に、
お供えは南に面して。
夜も更けて、
人が寝静まる頃まで
月はお供え物に気付かない。
天空の真ん中に昇って
やっとお供え物に気付くのでしょう。

お袋は趣味人でした。
子供に声をかけて
――今日はお月見に行こうね、
と誘う。
それを聞いて不思議に思わず、
――行く、行く!、と応える。
どこか特別な所、
月がきれいに輝く所があるに違いない、
と思っていました。
車を走らせて約30kmほど、
小さな沼に辿り着く。
湖沼の際には薄が生えて、
湖面には赤い月が映し出されていた。
ここはお月見の名所。
それはそれできれいでしたが、
もっと別な何かを期待していたボクは、
正直、がっかりしたものでした。

ところでお月見泥棒さん。
お月見の日は、
お供え物を盗んでも叱られない。
僕にはできないけれど、
勇敢な子供は他の家に忍び込んで、
こっそりお供え物を頂戴する。
けれど大人はそれを見て、
あれまぁ・・、
という顔をしながら、

見て見ぬふりをする。
これはこれで、
大人目線のサスペンス。

今夜は中秋の名月。
きれいな月が見えるでしょうか。

2018.9.24.

赤ずきんちゃん気をつけて

赤頭巾ちゃん気をつけてーー、
という本を読んだことがある。
庄司薫が書いた小説で、
芥川賞を受賞し、
一世を風靡した。
主人公はその当時の超進学校、
日比谷高校の生徒。
東大を目指していたが、
大学紛争の煽りで、
翌年の東大入試が中止になり、
愛犬は死に、
幼馴染の彼女とも別れて、
踏んだり蹴ったりの一日がスタートする、
という書き出しで始まっている。
いかにも青春のほろ苦さと、
感性がキラキラ輝いて、
情景描写は軽妙洒脱、
当世風の鋭い感性が光って、
新鮮な感動を呼んだものでした。

その当時、周りには、
才能に恵まれた友人が大勢いました。
その中に田園調布に住む友人がいて
彼の家を訪ねたことがある。
彼は有名進学校の生徒。
当時も今も、
東大合格率を誇る超名門校のひとつ。
彼との共通の友人と一緒に家を訪ねると、
雨戸は閉まり、
人のいる気配がない。

しかし家を案内した友人は、
――きっといるよ!
と言いながら
雨戸に小石を投げた。
すると雨戸が開いて、
――よぉ!と声をあげながら
2階から降りてきた。
――なんで昼間から雨戸閉めてるんだよ、
と言うと、
――この方が勉強に集中できるからだ、
という。
彼に招かれて高校の文化祭に行ったことがある。
――面白いものを見せてやるよ、
と言いながら、
生徒が演じる演劇の舞台を見た。
前衛的な音楽が流れて、
舞台も、台詞も、風変わり。
その一種独特な異空間に不思議な感動を覚えた。
――全部、彼らのオリジナルだよ、
と話していた。
彼らの余りある才能を感じて
出来る生徒は違うなぁ、
と感じ入ってしまった。
その後、その高校では学園紛争があり、
彼はそれに関わっていた。
大学進学で悩み、
――退学して大検を受けようと思ってるんだ、
と話していた。
大検は高校を中退した生徒が、
大学入試の資格を得るために受ける認定試験。
しかし彼は大検を受けることなく、
高校を卒業して、
そして当然のことながら東大に合格した。

大学時代の一時期、
とあるグループに属していた。
グループには個性的な仲間が揃っていた。
その中に同じ超有名校の生徒がふたりいた。
ひとりはボクシング大好きで、
暇があるといつも
シャドウボクシングをしていた。
もうひとりは、
父親が都市銀行のシアトル支店に勤務し、
彼は母親と同居していた。
いかにも出来そうな顔をして、
実際、かなり成績は良かったらしい。
そんな彼らを含めて、
男5人で田園調布のハズレにある
友人宅(前記とは別の家)に出向いた。
夏休みの蒸し暑い夜だった。
その当時、エアコンのある家は珍しかったが、
の家にはエアコンがあって、
それをガンガンつけて、
仲間のひとりが肌着を脱ぎ、
上半身裸のまま家の中をうろうろしていた。
翌日、それを見咎めた友人の母親は、
――誰れよ、アレ!?
とかなりお冠。
人の家でなにしているの、
と言いたげだった。
それはともあれその前夜のこと、
友人宅の彼の部屋にはピアノがあった。
小さいころ習っていたという。
それを見て某高校のひとりが、
ピアノの鍵盤を開いて弾きはじめた。
そしてビートルズを弾く!
力強いタッチで見事に弾きこなし、
それも楽譜なし。
それに気圧されて、
みんな呆れるように聴き惚れていた。
――凄いね!楽譜なしで弾けるんだ、
というと、
――なんでも弾けるよ、
と言う。
その溢れる才能に驚いた。
別にピアニストを目指している訳ではなかったが
才能に秀でた人間はなんでもできる。
天は人に二物を与えずというが、
それは絶対に違う。
才能のある人間には、
天は二物も三物も与える。
その証拠に、
レオナルド・ダ・ヴィンチは、
画家として有名ですが、
建築、音楽、工学、細胞学、数学など
全てに優れている。
シンガーソングライターも
詞を作り、曲を作り、楽器を弾いて歌う。
優れた才能を持つ人間は、
自らの能力を活かすべく術を心得ている。
勿論、それは生まれついたものだけでなく、
才能ある人は、
才能を磨くことに余念がない、
ということだろう。

周りにはそうした才能に恵まれた人が、
たくさんいました。
ちなみに、
ピアノを弾いた彼も東大に合格しました。

2018.9.21

ゴッホとフェルメール

生きることは描くこと―――

ゴッホは今でこそ、
美術史に燦然と輝く画家ですが、
生前は不遇な生涯を辿りました。
以前、芦田愛美主演の
「ボクらの幼稚園?」というドラマがあって、
手術を受ける園児を励まそうと
彼を追って長野の病院に向かう。
手術を受ける園児は不安がいっぱい。
あるときその子のノートから
1枚の絵がポロリと落ちる。
それがゴッホの「星月夜」でした。
糸杉と夜空が描かれ、
空には星が瞬いで、
青い夜空がぐるぐると渦を巻いている。
彼から見れば、
青い夜空は不思議の世界。
魅惑的で、神秘的で、
彼はその絵の不思議の世界に
虜になっていました。
かく言う僕自身も、
ゴッホの「星月夜」は好きな絵でした。
高校では美術を選択し、
油彩道具を買い、
授業で絵筆を手にするようになって
美術に目覚め、
その中でお気に入りが、
ゴッホとルノアールでした。
ルノアールはソフトな筆致、
ゴッホは燃えるような黄色と、
全く違う作風ですが、
憑かれたように好きになりました。

ゴッホ/星月夜

新宿のリバイバル館で、
映画「おしゃれ泥棒」を観たことがあります。
オードリーヘップパーンの主演で、
彼女の父親は贋作画家。
有名な絵を贋作で描き、
その中に「糸杉と星の見える道」という、
ゴッホの絵が登場します。
スクリーンいっぱいに現れた一枚の絵。
1m四方ほどの絵ですが、
贋作とはいえ筆致は力強く、
黄色を基調にして描いた風景は圧巻でした。
その絵の持つ迫力、
観る人を惹き付ける魅力。
そんなものが迫ってきて、
衝撃の一作となりました。
そのときから
ゴッホやルノアールの美術本を買い、
それを描きたいと思っていましたが、
もっぱら手本にしたのは、
ルノアールでした。
ゴッホは魅力的でしたが、
自分の作風には似合わない。

糸杉と星の見える道

ゴッホ―――。
オランダの画家。
東京の国立新美術館で
以前、「ゴッホ没後120年」展があり、
10年ほど前にも東京都立美術館で
ゴッホ絵画展がありました。
アルル―――。
南フランスの寒村。
輝くような光を浴びて、
狂ったように描き続けます。
彼はアルルに
パリの絵仲間を集めようとしますが、
やって来たのはゴーギャンだけ。
あるときゴーギャンから、
お前の耳の描き方がおかしい、
と非難されて喧嘩になり、
ゴーギャンとの仲は破綻。
自ら耳を削ぎ落として、
最後はピストル自殺を遂げます。
それでもアルル時代は、
彼の画家生活の中で
最も充実した日々でした。
絵の具も満足に買えない生活の中で、
絵に対する情熱を燃やし続けました。
光そのものが生命の礼賛、
彼の内側から迸るエネルギーの源でした。
画家としての活動は10年ですが、
アルルの時代といわれる、
最後の2年間に集中しています。
彼は生涯、絵に対する憧れと情熱を
失うことはありませんでしたが、
生涯で売れた絵はたった1枚。
そんな風にして
彼の生涯を辿りながら作品を見ると、
また違った一面が見えてきます。
描きたいものを描く。
彼独自の技法で、独自の画風で、
ただひたすら。
彼の絵は存命中、
全く評価されませんでしたが、
今では世界中の人を虜にするほど
不思議な魅力に満ちています。
そして僕自身も・・・。

絵は目で見るのではなく、
心で感じるもの。
それは音楽によらず、
絵によらず、
感性が響きあえば、
見える世界があります。
南フランスの旅や、
オランダの旅も、
そうしたゴッホの魅力を
辿る旅でした。

***

フェルメール、
オランダの画家。
彼の経歴は謎が多く、
世に残された作品も30数点。
しかし彼はオランダの宝といわれ、
愛好者の中には熱烈なファンも多い。

特に「真珠の耳飾りの少女」は、
観るほどにその魅力に満ち、
底知れない深さを感じます。
吉永小百合のアクオスのCMにも
登場しましたが、
40cmほどの小ぶりな絵で、
最初にオークションに出品されたときは、
3000円ほどだったそうです。
今では南の「モナリザ」、
北の「真珠の耳飾りの少女」と
並び称されるほど有名な絵になりました。
この絵の魅力は、
緻密に計算された構成や配色と、
少女の表情にあります。
青いターバンを巻いて
黄色い服を着ていますが、
青と黄は言うなれば補色の関係、
それが不思議な色のバランスを
創り上げています。
そして小さな光。
目を凝らすと、
瞳と、唇と、耳飾りに小さな光があり、
これが少女の魅力を引き出す、
巧妙な仕掛けになっています。
しかもそれは偶然の産物ではなく、
緻密な計算の上に成り立っている。
少女の表情も静止画ではなく、
少女が背中に受けた声に気付いて、
えっと思いながら、
振り向いた瞬間を捉えています。
そこに少女の表情が活きています。
ほんの少し驚いたような、
振り向いてなにかを見据えているような、
そんな一瞬の表情があります。
そんな風に見ていくと
たった1枚の絵の中に、
不思議な魅力が溢れていることに気付きます。
それはなにかを感じる瞬間。
感性が呼応し、共振し、
奥深い世界に足を踏み込んでいく瞬間です。

フェルメール/真珠の耳飾りの少女

謎に包まれた画家の、
謎めいた少女の表情に触発されて、
ひとつの小説が生まれ、
その小説をもとに映画が作られました。
その名も「真珠の耳飾りの少女」。
少女を演じたのは、
スカーレット・ヨハンソン。
映画も話題になって、
彼女が世界で飛躍する
きっかけにもなりました。
ともあれ、
一枚の絵の中に、
名もなき少女の一瞬の輝きが、
永遠のときを刻んで封じ込まれています。
名作中の名作ーー。
人の記憶に刻まれて、
永く、愛される作品になるでしょう。

映画「真珠の耳飾りの少女」

好きなことや、
打ち込めるもの。
胸を焦がす想いや、
胸を震わせる感動。
そうした記憶に残る印象が、
人の感性を育てるように思います。
その日一日が、
昨日と変わらない日であれば、
心に残る陰影もなく、
なんの変化も見られない。
触れて、見て、感じて。
そんな風にして人は日々、
昨日と違った自分に出逢いながら成長してゆく。
それがたとえ失恋であっても、
人の心に深い余韻を残すことであれば、
あしたへの糧にすることができる。
昨日よりもあした。
新しいあしたを、と願いつつ。

2018.9.19