朝が来ない夜はない――
今では使い古された言葉ですが、
以前見たドラマの中で
初めてこのフレーズを耳にしたとき、
新鮮な感動を覚えたものでした。
しかしその後も
このフレーズを耳にするようになり、
当時の新鮮な感覚は薄れましたが、
それでも人の世の無常に光を灯す言葉として
今もなお心の中に生き続けています。
この言葉は、
一説によると
「新平家物語」に何度か登場し、
作家・吉川英治は、
この言葉を座右の銘にしたと言います。
嵐が吹く夜も、
やがて風はやみ朝を迎える。
夜から朝へ。
昨日から明日へ。
人の世の流転は繰り返し、
逆境のときも、
明日を迎えれば、
新鮮な気持に向き合うことができる。
希望とはそうしたもの。
人の気持が頓挫し、
停滞し、
行き詰ったとき、
朝が来ることを信じて待つ。
そのときに必ず
新鮮な自分に出逢うことができる。
朝の来ない夜はない。
ちなみに親父は
もともと地上に道はない、
みんなが歩けば道になる。
という言葉を座右の銘にして、
それを時折、色紙に書いていた。
これは作家・魯迅の短編小説
『故郷』の中にある一節で、
希望とは、
もともとあるものとはいえないし、
ないともいえない。
それは地上の道のようなもの。
この世にはもともと道はない。
歩く人が多くなれば、
それがやがて道になる――
そんな風に記してありました。
それを魯迅の小説を読んでいたときに、
偶然目にしました。
親父の座右の銘が
こんなところにあったのかと。
それは感動ものでしたが、
それを親父に確かめたわけでもない。
僕自身に座右の銘はない。
けれど自分自身が
これまで辿ってきたところに、
なにか感じたもの、
ひびき合うものがあり、
それが自分自身に通じるなにか、
として感じてきたように思います。
そのひとつは、
新鮮な気持に向き合うこと。
言葉を換えれば、
日々新たなり、進歩より進化。
旧態依然の場面から抜け出して
絶えず半歩前に踏み出すこと。
ひとりの人間のプレイクスルーは、
新鮮な気持に向き合うことで始まる。
自分自身の中の新しいなにか。
そうしたものがあったかどうか。
そしてこれからあるかどうか。
いくつもの疑間符が付きますが、
自分が共感し、
感動することがなければ、
人を共感させることはできないし、
心に響くメッセージとして
伝えることもできない。
書くことも同じ。
そのためには、
自らの感性に耳を澄ませることが大事で、
それは単に感じることではなく、
どう感じるのか。
それをどんな風に伝えるのか。
その先に表現力があります。
旅日記も珈琲の淹れ方も、
手前味噌ながら
色々なことを書かせて戴きましたが、
時がたてば、
書くことも伝えようとするメッセージも
少なくなります。
旅日記は旅をしなければ書けないし、
思い出は辿る記憶が尽きれば失われてゆく。
日々の中に伝えることはあるのか、
と問われれば、
それほどたくさんあるはずもない。
日々の中にそれほど
劇的なシーンがあるはずもないので、
ネタが尽きたかな、
と思うことが多くなりました。
作家ではないので
経験を辿ってメッセージを送るしか
手立てがないし、
単に文字を並べるだけでも意味がない。
マンネリになれば、
読み手の時間の無駄になるだけ。
最近はそうなっているのではないか、
と感じています。
そして12月31日。
1年の区切り。
キリのいいところかなとも思う。
2018.12.31