偉人・福沢諭吉

福沢諭吉――
彼は慶応義塾の創始者でり、
幕末から明治に至る激動期において
時代を切り拓く
オピニオンリーダーでした。

彼を1万円札で目にすれば、
その姿は凛々しく、
知性にあふれていますが、
彼の半生を綴る自叙伝、
「福翁自伝」を読むと、
彼はある意味で、
実に人間的で、

茶目っ気のある人だと知る。
彼が大坂の緒方洪庵塾にいたときは、
素っ裸で塾を歩き回り、
酒のためにはいたずらもして、
数々の失敗を重ねたという。
また、武士でありながら争いごとを嫌う。
江戸が火の海の中にあっても、
刀は不要と売り払い、
戦争になったら逃げるに限る、
と言ってはばからない。

福沢諭吉の素顔には、
その一方で、
気骨あふれる横顔がある。
彼の生き方の根底に向学心がある。
常に現状に甘んじることなく、
将来を見据えながら、
知識と知性を重んじて
向学心を絶やさない。
彼が郷里の中津を去り、
長崎に向かうときも、
二度と中津には戻るまい、
と意を決して旅立ったと言う。

彼の原点は漢学。
しかし西欧の知識を学ぶには、
オランダ語を学ぶに限る、
と蘭学を学び、
大坂時代には、
これからの時代は英語が必須、
と英語に目覚め、
その旺盛な学習意欲で
忽ちそれを身につけました。
現在の日本語の中には、
彼と彼の仲間が翻訳した言葉がたくさんある。
例えば、政治、行政、
思想、哲学、法律、経済、
資本、会社、演説、討論、競争などは、
福沢諭吉の翻訳造語ですが、
彼はその道の達人でした。
その頃の日本に「政治」はない。
とすれば新しい言葉を作るしかない。
そんな風にして
新しい日本語が次々に誕生したのです。

福沢諭吉の視点は、
常に時代を読み、
時代の風を感じる感性にありました。
それは彼の基本的なスタンス。
時代を凌駕する世論が、
攘夷に走るときも、
幕府も上方も互いに争っているが、
その覇権をどちらが握るか、
という攘夷論争でしかないと喝破する。
そして幕府の開鎖論も
実態は攘夷のしがらみから逃れられない、
と言い放つ。
彼は異国を排斥する攘夷が大嫌い。
新しい日本を築くには、
西欧に学び、
新しい知識を導入しなければならない、
と強く感じる。
彼のそうした視点は、
彼自身の深い知性と、
何度かの渡米や西欧渡航によって
裏付けられた
時代を読み解く感性でした。

さらに彼には、
当たり前のことを当たり前と感じる
天性の目がありました。
彼の著書の冒頭にある
――天は人の上に人を作らず、
  人の下に人を作らず、
との有名な一節がある「学問ススメ」でも
その片鱗を見せました。
彼は士農工商の士族の身分にありながら、
人をへつらい、身分を差別し、
それによる言葉遣いを嫌いました。
人は平等に学び、
それによって日本を導くことができる、
との姿勢で貫かれていました。
とりわけ本書の次の一節は
印象深いものがありました。
福沢諭吉が新銭座に
慶応義塾を創設した当時、
江戸は戦乱に塗れて戦争状態でした。
しかし彼は、
戦乱を目にして
浮き足立つ学生を前にして
――慶応義塾は日本の洋学のために
  世の中にいかなる騒動があっても、
  変乱があっても、
  未だかつて洋学の命脈を
  絶やしたことはない。
  この塾ある限り日本は文明国である。
  世間に頓着するな、
と言って励ましたという。

福澤諭吉の精神は、
独立自尊の言葉に象徴されますが、
それは彼自身の
生き方そのものでした。
彼は19歳で郷里を去り、
長崎から大坂、
江戸へと渡りましたが、
最初から独立の精神が
あったわけでもありません。
それは己の理想、
知的好奇心を追い求めた結果でした。
それが一転して、
人を想い、
人としての幸福を考え、
国家のあるべき姿として
独立の精神を説くようになったのは、
江戸に訪れた後のことでした。
彼の視点は、
多くの学問を経て、
海外に向けられるようになりました。
彼の長崎への遊学をきっかけに
ペルリの来航があります。
西洋の砲術は日本を遥かに凌いでいる。
ならばオランダの砲術を学ぼう。
その後、長崎を経て、
大坂の緒方洪庵塾で学び、
オランダ語を会得して、
少ない資料から洋学を学ぶにおよんで
西洋文化のレベルの高さに圧倒されます。
その後、福澤諭吉は、
咸臨丸で渡米する幸運に恵まれましたが、
それは偶然ではありません。
彼自身の、
海外へ目を開こうとする強い欲求が、
彼をして海外へ向かわせる
きっかけになりました。
そしてその後も
渡米し、渡欧し、
3度の海外渡航を得て、
それを「西洋事情」に著しましたが、
それは彼にとっても、
日本にとっても幸運な出来事でした。
もし彼に海外渡航の経験が与えられなければ
「西洋事情」の誕生はなく、
政府の要人、
そして一般人を含めて、
海外を知る好個の書が、
誕生することはありませんでした。

彼は幕末の混乱期に
外国の学問に接し、
海外の知識や
文化レベルの高さに圧倒され、
何としてもこれを得たい、
と願いました。
国を挙げての攘夷の時代。
しかし日本の将来を考えれば、
攘夷はありえない。
その一方で外人と接し、
オランダ語が通じない現実に落胆しました。
しかしその後は彼の真骨頂。
これからは英語の時代、
と気を取り直し、
オランダ語を学んでいれば、
英語も易しいだろう、
と忽ちそれを習得しました。

福澤諭吉の独立の精神。
それはまず己の独立であり、
唯我独尊――。
それが起点でした。
しかし彼は、
海外の見聞を広め、
海外の知識を会得し、
渡航先から多くの洋書を持ち帰って
それを解読すると、
ますます海外の文化との落差を痛感して
日本の将来を危惧しました。
日本の将来に何が必要か。
国家としてあるべき姿とは何か。
福澤諭吉はそれを考え続けました。
そしてその根底に、
独立の精神がありました。
それは一般民衆の「個」としての独立であり
それが「国家」としての
独立の系譜を辿ることになる。

ともあれ、
幕末から明治初期にあって、
福澤諭吉が唱え、
著した書物は驚嘆に値します。
「西洋事情」は、
一般人に世界に目を開かせた書物として
大きな衝撃を与えました。
そして「学問のすヽめ」は更に衝撃でした。
本著の序説に
――22万冊売れ、
  160人に一人が読んだ、
とありますが、
当時の日本の人口は3千5百万人。
その中に字の読めない人もいる。
明治5年の、
幕末の混乱期を終えたばかりの
封建色の強い時代に、
圧倒的な支持を得て、
衝撃的な影響を与えた本でした。
本書では随所に
彼自身の独立の精神が脈打っています。
その冒頭は先ほども述べたとおり、
あの有名な一節ですが、続いて、
――人は生まれながら
  貴賎の上下の差別なく・・
  しかるに・その有様に雲と泥との
  相違あるに似たるは何ぞや、
との言葉が続きます。
――人を人たらしめるもの、
  それは生まれながらの境遇や身分ではなく
  学ぶと学ばざるにある。
  しかもその学びの精神は、
  机上の空論や空疎な言葉の羅列ではなく
  必要なのは実学にあり。
  人は学ばなければ智はなく、
  智なき者は愚人なり。
  ならば賢人と愚人の別は、
  学ぶと学ばざるとによるもの、
と説いている。
時代を生き抜くための学びの大切さ、
それを訴えました。
さらに彼は、
個人の幸福を案じて
学問をすすめるのではなく、
日本の国家大計の一助として、
どうしてもそれが必要、
との大所高所からの見方によるものでした。
日本は長い鎖国で、
西欧文化から大きく立ち遅れ、
それを回復させるには、
政治家ひとりが日本を作るのではなく、
庶民の一人ひとりが、
学問に目覚め、
文化に目覚め、
西欧諸国に追いつき、
日本の国家を作るとの気概が必要だ、
と論じていたのです。
一人ひとりの個人の独立精神、
それがまた国家存亡の
鍵を握る原点でもありました。
しかるに民を見て福澤は危惧しました。
民はお上をへつらい、媚び、
彼らを見れば深く頭を垂れる。
これではいつまでたっても、
下にある者との意識が抜けない。
新生日本国家にあっては、
全ての国民は平等。
その意識を深く植え付けなければ、
個々人の学問の熱意も損なわれる、
と感じました。
平等を唱えるだけでなく、
彼らがそれを自覚し、
学問さえ身につければ、
雲の上の存在になることができる。
新しい時代は、
個々人にそうした機会を均等に与え、
人に生きる希望と熱意を喚び覚ますこと。
そしてそれこそが、
福澤諭吉の唱える独立の精神の原点でした。
幕末を駆け抜けた風雲児、
坂本龍馬がいて、
その後の日本を支えた思想家に
福沢諭吉がいる。
この二人なくして今の日本は語れない。


2018.12.17