親父の背中

父の後ろ姿には、
いつも青春時代の匂いがした。
父は学生時代、
蛮柄気風で鳴らした一ツ橋にあっても、
とりわけ蛮勇に名を馳せたボート部に籍を置き、
専らオール片手に青春を謳歌していた。
無論、その頃の父は知らない。
しかし、人づてに聞く
父の若き日のエピソードや、
写真の中で見る父の姿は
それを雄弁に物語っている。
父は粗野で蛮柄を気取りながら、
意外に繊細な面を持っていた。
ドストエフスキーの文学を愛好し、
初任給は全てクラッシック音楽の
レコードに注ぎ込むという

音楽マニアでもあった。
ときには、クラッシック音楽会の講演も
引き受けたという。
おそらく父の魅力は、
こうした人間的な幅の広さ、
人間臭さだったのだろう。

そんな父が倒れたのは、
私が大学3年の1月10日のことだった。
母から電話でそれを告げられたとき、
強い衝撃を受けた。
父は脳梗塞のために左半身が不自由になり、
回復の見通しも覚束ないという。
母はそんな父を実によく看病していた。
母が倒れた、
という連絡を受けたのは、
それから1ヶ月ほどした2月6日のこと。
看病や気苦労が重なったためだろう、
以前の病気が再発したものだった。
その母は不運な巡り合わせというべきか、
父の隣の病室に入院した。
父に対する配慮から、
母が隣の病室に入院したことは知らせなかった。
しかし、毎日顔を見せていた母が、
急に来なくなったのを
不思議に思わないはずはない。
ーーお母さんはどうしたのか、
との言葉に最初は適当に言葉を濁したが、
しまいには返す言葉も失った。

父の様態が急変したのは、
3月28日のことだった。
母はその日、
隣の病室に慌ただしく人が出入りするのを
感じ取ったらしく、
私の顔を見るなり声もなく泣いた。
母が憐れだった。
献身的に生涯を伴にした父が
亡くなったことも知らされずに、
隣室にいるはずの父の安否を
ひたすら気遣った。

その母も看護が報われることなく、
6月20日、
その生涯を閉じた。
遂に母には父の死を知らされることはなかった。

思えば父と母は仲睦まじい伴侶だった。
決して平坦な道とはいえなかったが、
母はそれに耐えて、
強い信念で父に従った。
そして父は、
後ろ姿に人生の教訓を語った。

***

以下は長男の進学後、
大学でお世話になった方々に送ったものです。

私自身は体育会に属したことはありません。
だから、大学の体育会とはなんぞや、
ということを、
肌身に感じて実感したことはありません。
私の兄も同じ大学でしたが、
学生新聞の草分けだった新聞を編集し、
同じ立場でした。

しかし、体育会に全く無縁かと言うと
決してそうではなく、
「父」は、というより「親父」
と言った方がしっくりきますが、
典型的な体育会の学生でした。
当時はまだ東京商科大学と呼ばれた一橋大学で、
端艇部すなわちボート部に籍を置き、
青春を謳歌していました。
当時の一橋は蛮勇が集まる所、
地方の学生が参集し、
根っから蛮柄気風の校風にあって、
そのまた蛮族の集うボート部に
籍を置いていました。
腕力が取り柄の学生で
旧制中学では空手に少々手を染めて、
それを活かす道として端艇部を選んだようです。

当時のエピソードは色々あります。
一ツ橋の寮に入るや否や、
朝から妙な掛け声で
なにやらしている学生がいる。
それに気をとめて覗いてみると、
寮の庭先で空手をしている学生がいる。
それが親父でした。
田舎弁丸出し、
しかし根っから陽気な性格で、
繊細さも併せ持っていました。
しかしこの輩、
大学に入った当初は全く酒が呑めず、
呑んでは吐き、吐いては呑んで、
呑むほどに酒はどんどん強くなって、
酒豪と呼ばれるほどになったそうです。
そんな親父の酒にまつわる話も尽きず、
東京に行った帰りに泥酔し、
列車に乗り込ませたはいいが、
同行した仲間が心配になり、
荷札を付けて車掌に頼みこんだ、
という話もありました。
そして冬の寒い夜更けに道に倒れている人がいて
ーーアレ~、**さんじゃないの!、
と言いながら
抱きかかえて連れて行ったという話もあります。

そんな親父ですから
学生時代の写真も
蛮柄そのままの映像が活写され、

裸踊りをしている写真、
腹のまわりに墨で顔を描いて
仲間と車座になっている写真など、
昔気質の蛮勇闊達な気質を如実にあらわしていました。
そんな親父を支えるお袋も大変だったようです。
結婚してからも酒宴の席で
この裸踊りを披露していたらしく、
育ちのいいお嬢さんだったお袋は
ーーそれだけはやめてください・・
とたしなめたそうです。
そんな親父だからこそ、
仲間と腹を割って話し、
人の話には耳を傾けたのでしょう。
人の痛み、人の声、民意を反映する活動。
それが親父の信条でした。
だから生涯お金には疎い人生でした。
しかしそうした気風は
我が家の血筋でもあるらしく、
長男に、収入のいい仕事を選ぶなら
損保か大手銀行だよ、
と話しましたが、
収入がいいかどうかは関係ない、

とその方面には関心を示しませんでした。

従兄弟に東大医学部を出て、
地元の総合病院の名誉院長をした人がいます。
彼もまた金には疎い人でした。
私とは歳が離れていて、
すでに他界していますが、
当時の彼を語るエピソードは色々あります。
とにかく人望の厚い、
人に優しく魅力あふれる医者でした。
そんな人でしたから
彼の行く先々に患者が集まり、
親からは開業を迫られていましたが、
それを拒んで生涯、
病院の一医師として過ごしました。
院長と親父は、
家で酒を酌み交わすこともありましたが、
いつも、笑い方がそっくりだな、
と感じていました。

豪放磊落な性格。
順風満帆に生きたとはいえませんが、
自分の意志を貫き、
それを果たしてきた親父は立派でした。
その父、享年58歳、
母、53歳。
親父とお袋は私が学生時代の3ヶ月の間に、
手を携えるように他界しました。
それほど仲が良かったんだろうな。
親父とお袋の写真を見るたびに
ふとそんなことを思うのです。

2018.8.15