子供が小さい頃、
家族で北海道旅行をしました。
長女は小学2年生、
長男はまだ幼稚園生でした。
子供たちがその当時、
帯広のおじいちゃん、
小樽のおばあちゃんと呼んでいた二人に
会うことを兼ねて、
夏休みに車を走らせました。
とは言うもののこの二人は、
実のおばあちゃん、
おじいちゃんではなく、
おばあちゃんは父の従兄弟、
おじいちゃんは旅先で知り合った人でした。
帯広のおじいちゃんは、
家内が旅先の北海道の列車で出会い、
その後、毎年のように
季節の食べ物などが
ダンボールに詰めて送られてきて、
こちらも地元の名物などを送って、
その付き合いが10年ほど続きました。
北海道紀行の最初の宿は
小樽の高台にある
マウント・ヒル小樽という公共の宿。
偶然にも親戚の家は目と鼻の先の、
1kmほどのところでした。
夜、電話をすると、
おばあちゃんは入院しているんだよ、
というので、
翌日、お見舞いに行きました。
おばあちゃんはとても元気そうで、
病人には見えないほど。
笑顔をふりまいて、
帰り際には、
今夜泊まっておいで、
冬になったらスキーにおいで、
近くにはキロロもあるよ、
と私達の訪問を快く出迎えてくれました。
この時は、
旅行の予定は決まっていたので、
きっとまた来ます、
と言い残して去りました。
しかしその数ヵ月後、
突然の訃報。
元気なうちにもう一度会いたい、
との願いは叶えられませんでしたが、
年末に墓参りを兼ねて
小樽の家を訪ねることにしました。
小樽の家は港を望む高台にあり、
そこで正月を迎えました。
小樽の家を訪ねて驚いたことは、
徹底した防寒対応。
そのときは今ほど
省エネが注目されていませんでしたが、
さまざまな防寒の工夫が施され、
玄関は雪国らしい二重扉で、
家の中は床暖房。
天井と壁は断熱材が張り巡らされ、
全ての窓が三重サッシ。
全館全冬の空調設備で、
外出するときも火種を絶やすことなく、
家の隅々まで暖房が行きわたり、
――真冬でも半袖だよ、
との言葉どおり、
室内は常に25度で、
24時間セントラル・ヒーティング。
家の中は全くの寒さ知らず。
大分前、ご主人が若い頃、
我が家にスキーを抱えて
泊まりに来たことがありましたが、
寒い寒い!と言いながら
――内地(本州)に行くと寒くて風邪ひいちゃうよ、
と話していたのを思い出しました。
北海道の家は真冬も快適な生活で、
なるほど!と納得しました。
気になるのは光熱費。
それほど暖房を施しても
ひと冬で10万円くらいだと言います。
雪国の冬は快適で光熱費も安い。
北国の冬は暗くて
じめじめした暮らしを想像していましたが、
とんでもない誤解、
と雪国のイメージが一変しました。
小樽のおばあちゃんは、
時代を逞しく生きた人でした。
かくしゃくとした気丈な人で、
面倒見がとてもいい。
それは若い頃からの気質らしく、
友人の中に若い頃の作家、
三浦綾子がいました。
私が、三浦綾子の回顧録ともいうべき
「青春時代に出会った本」という本を読んでいたとき、
偶然にもおばあちゃんのことに触れる
くだりがありました。
作家・三浦綾子はご存知のとおり、
「氷点」「塩狩峠」「泥流地帯」などを書いた著名な作家。
三浦綾子さんとは、
歌志内の神威小学校時代の教員仲間で、
小樽の家には三浦さんから贈られた寄贈本が並べられ、
息子さんは、
――新刊本が出るとこうして
一筆添えて送ってきてくれるんですよ、
と話していました。
三浦さんは先生を友人として、
そして恩師としても大変慕っていたらしく、
ともにクリスチャン。
三浦さんの青春時代に
大きな影響を与えた人だったようです。
本の中では数頁の簡単な紹介でしたが、
彼女は「K.Y」というイニシャルで、
教員仲間の部隊長と呼ばれていたとあり、
いかにも「らしいな」という気がしました。
彼女の父親は小説家、
本人は女学校、音楽学校、医薬専などを卒業して、
神威小学校で当初は、
代用教員として採用されたそうですが、
正教員の免許をとるために
女学校の補修講義に再入学し、
卒業後は三浦さんらを引き連れて
神威小学校に教員として戻った、
と語られていました。
歌志内は時代を凌駕した北海道の炭鉱町。
生徒も2000人を越えたと言います。
三浦綾子さんにとって、
K.Yさんは先輩であり、
努力の人であり、
人生の手本とすべき尊敬する人、
大恩人でもあったようです。
三浦綾子さんはその後、
彼女の影響を受けて書に親しみ、
再び勉学の熱に燃えたとありました。
そのとき昭和16年。
北海道の戦火はなお遠く、
三浦綾子18歳、K.Y.33歳。
ともに今は亡き人で、
人と人の巡り逢いで
人生の色模様も大きく塗り替えられる、
ということを痛感しました。
旅行のもうひとつ目的は、
帯広のおじいちゃんを訪ねることでした。
おじいちゃんは、
家内が結婚前に高校時代の友人と
北海道旅行をしたとき、
襟裳岬の先にある
幸福駅へ向かう列車の中で出会った人。
農協仲間との旅行で、
旅はつれづれ列車の中で会話をかわし、
それ以後、北海道からじゃがいもやてんさい、
六花亭のチョコやお菓子、
長男には高価な釣り道具一式が送られて、
お年玉や七五三祝いなどが贈られたこともありました。
子供たちは、
帯広のおじいちゃんと呼び、
その年の夏、
元気なうちにおじいちゃんに会いたい、
との願いを込めて北海道に向かい、
十勝のキャンプ場でテントを張り、
一緒に夕食を食べて、
翌日、再びやってきて、
帯広近くのひまわり畑の迷路を歩きました。
でも、とても疲れた様子。
別れ際に、
――これで、いつ死んでもいい・・・
と呟きました。
それが最後でした。
おそらく不治の病に侵されて、
余命が少ないことも知っていたのだと思います。
人と人との出会いと別れ。
さまざまな歓びに出会いましたが、
別れの切なさや淋しさも感じたものでした。
2018.7.6