遥かなる中央ヨーロッパ-2

中欧の旅は愉しい旅でした。
旅先で知り合ったおばさんたちは、
ときおり仲間で海外へ行くといい、
そこに別の仲間も加わって、
旅の後半はワイワイ賑やかに過ごしました。

ザルツブルクやプラハは、
7月の平均最高気温は20℃と
日本に比べれば涼しくて湿度も低い。
かくして軽井沢に行くような
避暑地巡りのノリで出発しましたが、
とんでもなかった!!
猛暑の夏に襲われて、
ハルシュタットの風雅な風景も
目の先に汗が滲んで見えないほどでした。

かくも愉しい旅が終れば、
尽きることのない旅の計画が始まります。
それは1年、2年のインターバルではなく、
長期的にしてささやかな夢の旅。
我が家では「ニンジンをぶら下げたロバ」の話をします。
鼻先に「旅」というニンジンを
ぶら下げていかなければ生きてはいけない。
次なる旅はポーランドか、
ニュージーランドか、
カナダの東海岸か、それともスイスか。
それがどこであれ、
世界は夢路の涯ての見果てぬ夢の国。
夢を追って、
夢追い人のデイドリームが始まります。

世の中は狭いと言いますが、
旅先でこんなことがありました。
プラハのホテルのロビーでのこと。
とある人と、
――どこから来たんですか、
と言う話になって、
――**からです、
と話す隣に二人連れの親娘がいた。
それを聞いて隣の人が身を乗り出す。
――エッ、私もですよ。
聞くとすぐ隣町に住んで同じ学区。
そのお嬢さんも娘と同じ年頃で、
――失礼ですけどおいくつですか、
と話すと同じ歳。
小学校も同じで同じ学年。
さらに娘の名前を伝えると、
――それは覚えていない、
と話していましたが。
彼女は小学校4年生のとき、
親の仕事で転勤し同じクラスではない。
その夜、娘からホテルに電話が来たので、
そのことを話すと、
――知ってるよ、背の高い人だよね、
と話していました。
平原綾香に似た人で
後日、彼女と友達のことに話がおよぶと
馴染みのある名前がどんどん飛び出して、
随分前で忘れてしまったんですけど、
と話しながらも懐かしそうでした。
彼女の家は我が家から2kmほどの高台にあった。
世間は本当に狭いと感じました。

ヨーロッパを旅すると
歴史の重みを感じます。
どれほど戦争で疲弊し、
どれほど生活に不便を感じても
歴史遺産をとても大切にする。
ウィーンの街を案内したのはオーストリア人。
訥々と語る日本語に味があり、
人を笑わせるのがうまかった。
そのガイドさんがウィーンの街を案内した。
――ヨーロッパ人は
歴史遺産をとても大切にします。
見てください、
綺麗な街並みですね。
ウィーンの誇りです。
右を見てください。
あれは**ホテルです。
最近建ちました。
近代的ですね、高いですね。
でもみんな反対しました。
ウィーンの街に似合いません。
建築法違反です。
見ないで下さい、
目を伏せてください、
ウィーンの恥です――。
ウィーンのシューンベルン宮殿や
色々な史跡を案内してくれたが、
オーストリアは第二次大戦勃発当初、
微妙な立場にあった。
殆ど恫喝という圧力で
ナチスドイツに組み込まれながら、
国内は分裂状態だった。
街並みの多くは戦災に焼けて、
史跡も大きな打撃を受けた。
それでも元の姿を取り戻そうと
国をあげての復旧工事が行われている。
それはウィーンに限らず、
プラハやブタペストも同じ。
旧東欧諸国は、
社会主義時代の暗い影が付きまとうが、
行ってみるとそんな印象も影が薄い。
プラハ市内にはカフェが所狭しと並び、
街並みは活気にあふれ、
旧く荒んだ壁は綺麗に塗り替えられている。
しかしそれだけではなく、
プラハの街そのものが住む人の誇りであり、
生きる支えになっていると感じる。

ふるさとという言葉がある。
田畑や山が広がる田園風景を想像しますが、
ヨーロッパ人には、
そこが街であろうと都市であろうと、
ふるさとは人が住む所にある。
歴史の重みは人の心のプライドだけでなく、
人の心に安らぎを与える懐かしい風景なのでしょう。
2018.5.9