音の世界

学生時代、
見るからに武骨な友人がいて、
その男が酒を呑みながら、
――フルトベングラーの第5は最高!
  あれを聴いていると涙が出てくる。
と言うのです。
フルトベングラーは当代きっての名指揮者。
そして第5は言わずと知れた
ベートーベンの第5交響曲「運命」。
それはそれとして、
あの武骨な男にこんな繊細な面があることが
なんとも不思議で、
人は見かけによらぬもの、
としみじみ感じたものでした。
僕自身、中学時代から音楽が大好き。
そして高校生になって
少し多めの小遣いの大半を、
レコードと本と映画に費やしていました。
高校時代は標準的な生徒で、
煙草は吸わず酒も呑まず、
ギャンブルをすることもない、
という真面目な生徒で、
不良行為はしない、できない、
ごくごく平凡な生徒でした。
とはいえ親がいる前で酒を呑んでいましたが、
そんなときは、
今日は呑んでもいいぞ!
という酒解禁日の日でした。
親父は根っからの酒好き。
大学時代は一ツ橋の端艇部に籍を置いて、
酒豪と呼ばれ、
酒にまつわる失敗談や
エピソードが尽きない。
そんな親父の持論は、
酒は呑むべし、
しかし煙草は吸うべからず。
百害あって一利なし。
そんな親父はピース党。
死ぬまで煙草はやめませんでしたが。
僕はともあれ
高校時代の愉しみのひとつに
音楽がありました。

テレビを見ることは殆どなく、
朝型の生活をして、
深夜放送を聴きながら、
音楽を聴き、本を読み、
ときに勉強して
自在の時間を愉しんでいました。

音楽は酔狂の世界。
現実の世界から引き離し、
異次元の時空を彷徨いながら
感性の響きあう時間を与えてくれる。
そして音楽は心--
その時々の気分に合わせて聴くのが自分流で
ときに昂る心は
螺旋階段を駆け上がるモーツァルトを、
静謐な重厚さを求めるときはバッハを、
センチメンタルな気分に浸るときはショパンを、
というように、
その時々の気分に合せて
感性を共振し増幅させる。
それが音楽でした。
そして音楽は心--
体で感じ心で聴き、
感性をふるわせる。
そのためには大音響で聴くのがいちばんですが、
我が家では住民の多数決によりいつも却下。
音を絞って静かに聞くべし、
とのことで大音響が叶うことはない。

作家・村上春樹は、
さほど好きな作家ではないが、
彼の創造力の源に音楽があると感じる。
流れるような、
溢れるような感性があって、
言葉がメロディを弾き、
それを文字として紡いでいく。
それは豊穣なる音の世界の賜物でしょう。
村上春樹は作家としてデビューする前、
国分寺でジャズ喫茶のマスターをしていました。
彼の作品はそんな痕跡として
ジャズに関するエピソードが
点在していますが、

ジャズという音楽から
小説の世界に転化した何かがあります。
彼はジャズが好きという枠を超えて、
ジャズに心底惚れていました。
彼の中の、
そんな風に夢中になれるもの、
胸の中に流れる熱いものが、
人としての感性を育み、
作家としての彼自身を
創りあげてきたように思うのです。

かくして作家・村上春樹は、
音楽に啓示を受けて、
小説の世界に村上ワールドの、
独特の作風を築き上げてきました。
音楽の愉しみ方は人それぞれ。
聴いて愉しむだけでなく、
心の冷静さと安らぎ、
あるいは活動の源としての
役割を担っています。

2018.3.16