
感性がLyricalに光る映画は、
何かしら心に余韻を残します。
以前、「ビヨンド・サイレンス」という
ドイツ映画を見たことがあります。
聾唖の両親を持つ娘が、
ふとしたことで音楽に目覚め、
クラリネット奏者を目指す。
けれど父は
そんな娘を快く思わない。
行き違いすれ違いやがて、
――お前が聾唖だったら
同じ世界に住めたのに、
と言い残して別れる。
音の世界を持たない父と、
音の世界に生きる娘と、
決して同じステージに立つことのない親子が
それでもその境界を越えて
互いに理解しようと努める。
心の触合いと、
そして葛藤と……。
世の中には言葉を介して、
いろいろな諺がありますが、
学生時代に読んだ本の中に
こんなものもありました。
愛には多くの沈黙が含まれる。
――黙って、あなたの愛が聞えるように!
この映画ではこんな場面もありました。
父親はしんしんと降る雪を見ながら、
手話で
――とてもきれいだ、と呟く。
そして娘に
――雪はどんな音がするの、
と訊く。
それに娘は、
――雪には音がない。
全ての音を消すのよ、と言う……
心のふれあう音が聞こえるような、
そんな不思議な余韻の残るシーンでした。
何かを感じることは
この情景に似ている。
人と人の間には境界があって、
人と人との心の狭間で揺れ動いて、
見えない垣根を作ることがある。
しかし芸術はそうした境界を越えてゆく。
言葉の壁を越え、
お互いの感性の間に
不思議な共感の光を灯す。
なにかが聞こえ、
なにかが響きあう…。
それでこそ感性が触れ合う
音の聴こえる瞬間でしょう。
感性が震え、
響きあう音が。
芸術はそうした世界の中にあります。
フランス、パリ。
パリは芸術の都。
パリのモンマルトルの丘に
白亜の殿堂・サクレクール寺院が聳える。
その隣にはテルトル広場、
そしてさらにはムーランルージュ。
7年ほど前、
パリに訪れたとき、
メトロに乗って真っ先に此処を訪れました。
夏のパリは夜の更けるのが遅い。
9時を過ぎても明るい陽射しが射して、
あぁヨーロッパだな、
と感じたものでした。
サクレクール寺院の隣りはテルトル広場。
此処はいわば
芸術家の溜まり場ですが、
訪れたそのときは
広場の真ん中に大きなカフェがあり、
その周りでは似顔絵画家たちが出番を待つ。
これもまたパリの風景。
かつてのテルトㇽ広場(絵葉書)
こんな話を聞いたことがある。
かつてパリは人が集まり、
集まるほど
無造作に町が造り上げられ、
雑然として道路も狭く2mにも満たない。
だから建物が密集して
空気も澱んで光が射すこともない。
そんな町だったそうです。
その当時、
家の中にはトイレはなく、
家に溜った汚物は
中庭にうず高く積みあげられ、
階上の窓から声をかけて
上から投げ捨てる。
それだけに当時のパリは
きわめて不衛生で、
悪臭が漂い、
コレラが発生して
多くのパリ市民が命を落としました。
だからこそ町の大改造にも
市民は応じたのでしょう。
パリに香水が流行したのも
そうした匂い消しのためだったようです。
それでもなおパリは
芸術家たちの憧れの都市でした。
印象派の画家たちも
大改造が進むパリの町に集まり、
芸術談義を交わしたと言います。
そして南フランスのコートダジュールも
画家たちの聖地。
降り注ぐ陽の光を求めて、
此処に集い、
数多くの傑作を世に残しました。
美しい風景、美しい光、
そして美しい村。
それらが美しい絵として紡ぎ出され、
後世に遺すことになりました。
2018.3.14