親の目線、子の目線--
ときどきそんなことを考える。
僕自身は親として
合格点をもらえるとは思わないが、
それでも子供の目線を経験して
親の立場に立つと、
それまで見えなかったものが見えてくる。
子供は受ける立場。
与えられるものを受けることで
生命を紡いでいく立場。
自分のしたいこと、
自分の望むものがあって、
それを中心に世界は巡り巡る。
我が侭で自由奔放。
その一方で親は子供に与える立場。
子供が望むことを知り、
それを満たしてあげたいと願い、
子供のために何ができるかと考える。
親と子では目線の位置は
180度違うものだ。
そしてそれを知るのは、
子供をもってからだろう。
だからこそ、
子をもって知る親の恩との諺もある。
子供にとって
与えられることは当たり前で、
他方、親は子供に恩を売ることはしない。
それが無償の愛、
見返りを求めない愛。
それが恋する愛と親の愛の違い。
親はそれをことも無げにやり遂げ、
それを本能のように振る舞う。
そして親は子供が
一人前に成長することで、
なにものにも代え難い
代償を得ることになる。
そこには貸借対照表の関係はないし、
物品の相互供与があるわけでもない。
親から子へ、子からまたその子へ。
それが家族の伝承で、
永遠に営み続けられる
行為であるように思う。
思い返すと母親は因果なものだなと思う。
何がしかの自己犠牲を強いても、
それを歓びとすら感じて
子供に愛情を注ぐ。
子供の喜ぶ顔さえ見れば、
それが幸せで、
自分の母親がしていたことを重ね合わせ
そういえばお母さんもそうだったよね、
と思い返す。
親は目の前に子供がいれば、
子供のことを考え、
子供を優先して、
なにはともあれ子供基準で物事は動いて
子供目線で考える。
それが親というもの。
子供が泣けばなにが不満か、
なにが足りないのか、
なにを望んでいるのか、
それを考える。
そして親は子供目線で考えることで
子供を理解し成長していく。
親から子への愛は、
純粋な伝承経路を辿っていく。
こんなことがあった。
僕の両親は学生時代、
ほとんど同じ時期に亡くなった。
その母親の遺品を整理しているとき、
鏡台の小引き出しの奥に
小さな紙片があった。
見るとそれは短いメッセージで、
それに添えて
「お母さん、いつもありがとう」とあった。
それは僕が小学生のときに先生から
――あしたは母の日ですね。
日頃の感謝をこめて
お母さんにお紙を書きましょう。
と言われて書いたもの。
書かされたといってもよい。
それをみたとき、
なにを今さら後生大事にと思い、
なんともやりきれない気持ちになった。
母親とはかくもそうしたもの。
そんなささいなことが嬉しいのかとも思う。
我が家でも冷蔵庫の横には少し前まで、
有効期限切れとも思える娘からの
「肩たたき100回券」なるものが
貼ってあった。
無償の愛、見返りを求めない愛――。
本能として母親には
備わっているように思うが、
今では十分すぎるほどの見返りを
子供から受けていることに気付く。
学生時代にはこんなこともあった。
クラスの友人4人で九州旅行に行った。
当時、我が家には2台の車があった。
一台は仕事用で、
もう一台は普段使いのボロ車。
友達への見得もある。
だから親父に頼んだ。
車を貸してほしいんだけど。
しかし言下に、駄目だ!の一言。
遊びに仕事の車を使うなんて、
というわけだ。
傍らでお袋は黙って見ていた。
諦めるしかないと思った。
暫くしてお袋が来て
――車、大丈夫だからね、と言った。
お袋は楽しみにしている友達との旅行だから
と親父をなだめ説得してくれたのだろう。
そんな風にして
20日間の旅行に行くことができた。
親父の立場とお袋の想い。
そんなものを感じていた。
2018.3.2