広大無辺の大地・北海道

美瑛の丘(前田真三)↑↓

北海道の魅力は
なんといっても、
伸びやかに広がる風景。
空と、海と、湖と、大地と、
それらが渾然一体として
広大無辺なる
雄大な風景を創り上げている。
とりわけ、
北海道は真っすぐに伸びる
道が美しい。
どこまでも果てしなく
一直線に伸びて、
上下になだらかにうねり、
遠くかすむ道の端で
地平線と空が交わる。

北海道は
どこを切り取っても
絵のような風景が広がる。
その中でも、
富良野や美瑛が美しい。
この風景に日本の美を見出し、
此処を住処として、
一幅の写真絵巻を撮り続けた
写真家、
前田真三を思い出す。
彼の亡き後も、
この風景を求めて
多くの写真家がこの地を訪れたが、
今もなお彼を超えることはない。
じゃがいも畑や
ラべンダーの畑など、
通り過ぎれば
見過ごしてしまうかもしれない、
なんの変哲もない風景。
その風景に美の極致を見出し、
夢幻原野の新たな世界を
切りひらいてきた。
そんな風景を探して
僕らは富良野や美瑛を訪ね、
そのたびにこの風景の美しさを
再認識したものです。

ここを拠点に活動したもう一人の有名人に脚本家の倉本聡がいるーー。
彼のドラマ「北の国から」では、主人公・黒板家族は日々の暮らしを支える水や食べ物にさえも苦労し、必死に生きる姿が描かれていましたが、それは人が生きる証としての、生命の鼓動そのもの。人と自然が共存する北海道の原点であり、だからこそ北海道は手作りの旅がよく似合う。今はどこでも簡単に車で行くことができる。それはそれなりに愉しいが、旅の醍醐味である手作りの感触が失われつつあるように感じる。僕自身の思い出に残る最初の旅は、学生時代の北海道の旅。そのとき「知床旅情」という曲が大ヒットし、哀切をともなう物悲しい旋律が北海道への旅心を誘ったものでした。その当時は、ユースホステルと周遊券の旅が、旅の定番。旅行の計画から、交通機関の手配、宿泊先まで全て手作りで、思い出の頁を綴っていきました。だからこそ思い出せばどことなく切なく、懐かしい匂いがします。

きっかけは春休み。早稲田に入学する友人と渋谷の喫茶店で待ち合わせ。久しぶり!、と言いながら顔をほころばせて歩いてくる。
――スキーに行ったんだな、
と声をかけると擦り剥けた鼻を撫でながら、
――おかげでパンダになっちゃったよ、
と眼の縁の白いゴーグル跡を気にしている。ともかく話をするうちに、
――夏休み、どこかに行きたいな、
という話しになり、北海道に行こうということになった。あれは「知床旅情」がヒットした後のこと。そのメロディが奏でる北の果ての旅情に誘われて、北海道行きが決まった。旅の計画は、仕掛人となった某氏が仕切る。ガイドブックをひろげ、時刻表を開いて旅を創る。まだNETなんてない時代。旅の計画の苦労はあったが、それさえも愉しく、新鮮だった。

旅の始まりは7月末の夜行列車。旅仲間は4人。今ではブルートレインと呼ばれる夜行列車も、時代の趨勢に押されて影が薄くなったが、夜行列車ほど旅心をそそるものはない。寝台列車の3段ベッドのどこに当夜の寝床を構えるか。それも籤で決める。下段は広くて揺れが少なく寝心地もいい。それに比べると上段は狭くて天井が低く、列車の揺れも大きい。夜行列車はなかなか寝付けない。乗り馴れないせいか列車の揺れが気になるし、なんとなく旅立ちの興奮もある。それでも時がたって睡魔に誘われる。
夜のしじまにカーテン越しの光が洩れ、やがて鈍い光が控えめに射し込んで、朝が来たことを告げる。と言っても夏の朝は早い。まだまだ夜と思いつつも、なかなか眠れない。そっとベッドを抜け出して、通路の向かい側にある窓にもたれながら窓の外を見る。レールを軋む列車の音がして、それを聞きながら見るともなしに薄暗い闇に包まれた景色を眺めていた。そうこうしているうちに仲間も起き出して来る。
――今、何時ぃ?
と言いながら眠い眼をこすり、あくびをしている。時計を見ても5時を過ぎたばかり。友人は歯ブラシとタオルを手にして洗面所に向かう。なに気ない景色と、他愛ない動作。そんなひとつひとつが妙に旅心をそそり、脳裏に刻まれている。
青森からは青函連絡船。札幌行の列車に乗り換えて小樽へ。今では青函トンネルができて列車で通り抜けることができる。全長54km。隔世の感だ。小樽駅では親戚が出迎えて、札幌の羊が丘でジンギスカンをご馳走になった。広々とした草原をバックにおいしい食事。思い出の風景。
翌日は車で積丹半島を案内してくれた。積丹の海は美しい。深い藍色を帯びた海が夏の光をあびて、北海道の海がこんなに綺麗なのかと驚いた。そこには積丹ブルーの美しい海が広がっていた。

積丹ブルーの海

その後は、旭川から網走―知床―摩周湖―阿寒湖―襟裳岬―日高から洞爺湖へと渡った。その間10日位。旅の宿は殆んどユースホステル。学生は金がない。YHはその当時、安宿の代名詞だったが、出会いの場でもあった。夕食後は、旅仲間と一緒にゲームをしたり、歓談して過ごした。その中には旅の達人もいた。当時の旅の定番は北海道周遊券の旅。有効期限があった。彼らの中には、行く先々で旅を終えようとする旅人に声をかけ、有効期限の残る周遊券と交換しながら旅から旅へと巡る。襟裳岬で会った旅の達人は、そんな風にして1ヶ月以上旅をしていた。

襟裳岬
百人浜

襟裳岬は暑い夏。
北海道の思い出の場面。なにげない風景ですが、今も記憶に刻まれる風景となっている。襟裳岬に隣接して百人浜と呼ばれる美しい浜がある。海岸に沿って襟裳岬から10Kmほど続く長い浜ですが、数々の伝説と、歴史が刻まれている。江戸時代の末期、ロシアの南下を防ぐため、警護に向かった御用船が嵐で難破し、多くの遺体が浜に流れ着いたという。沖に漂着した僅かな人も、飢えと寒さで命を落とし、百人ほどの犠牲者があったとされる。そんな悲しい伝説が、美しい風景に溶け込んで、旅する人の心に刻まれる風景になっていました。
そんな伝説と名前に魅せられて百人浜に向かう。往路はバス。広々した草原にバス停の標識だけがポツンと立っている。そんなバス停を降りて周りを見回せば、海と、砂浜と、草原以外には何もない。それでも背伸びして、元気よく歩きだした。
—―いいなぁ、こんな景色、
と言いながら俄かに空が暗くなって、やがて大粒の雨が降り出す。慌てて走り出したが、目指す先は遠く、雨をしのぐものはなにもない。あきらめて、びしょびしょに濡れながらテクテクと歩きだす。夏の日の、天然シャワー。あの夏の感傷が妙に懐かしい。
それでは。
2018.2.26