旅のはじまり
旅の始まりの高揚感――、
とりわけ、ジェット機が滑り出すように舞い上がる瞬間がいい。滑走路の起点を目指して静かに飛行場を旋回し、そしてキ~ンという金属音を響かせながら大空へ舞い上がる。そのときの浮遊感、Gを感じて飛び立つときの緊迫感。そうした最初のワクワク感が今も忘れられない。
初めての海外はパリ経由でスイスへ。飛行機に乗るのも初めてで、未体験ゾーンを一挙に突破して、ふわふわ浮いたまま旅が始まりました。スイスは未知の旅。小さい頃から憧れの地で、雪を戴いた美しい山が幾重も重なり、アルプスホルンとヨーデルがひびく国。その日が迫るにつれて旅への誘惑は弥が上にも高まりました。と言っても、その当時はインドのカラチ経由で、ギリシャのアテネでは、航空会社のストの影響で空港ロビーで7時間待たされるというハプニングもありました。そんなこんなで、日本をたって目的地のパリに着いたのは36時間後。本当に長い長い旅でした。


それから暫くは海外旅行もお預け。幼い子供を抱えて海外に行くのは大変、費用もかかるとあって、その後は専ら国内でした。北海道、九州などを車で転々として飛行機に乗ることも慣れました。その後、思い立って海外に行ったのはオーストラリア。10年後のこと。円高で海外が身近になって海外旅行の夢が膨らむ。正月休みを前に急に海外へ行くことを思い立ちました。でも、冬は寒い国より暖かいところへ。南洋諸島かハワイかと考えているうちに、季節の反転するオーストラリアが候補にあがりました。


久しぶりの海外で旅費も少し弾みました。二人の子供は小学5年生と2年生。海外といえば、ツアーガイドが旗を持って、その後をぞろぞろと歩く姿が印象的ですが、行ってみて驚く。ツアー客は我々だけ。しかも、現地の案内人が行く先々で待っている。出発は12月28日。最初の経由地はブリスベン。タラップを降りて出口ゲートに行くと、我々の名前の看板を手にした外人女性がいた。エッ!英語で喋べらなきゃならないの、どんな風に?と一瞬ひるんだが、とにかく歩み寄る。しかし、外人女性の口から飛び出したのは日本語。不思議な違和感。外国人なのに日本語がやたらうまい。日本に1年ほどいて日本から帰ったばかりだという。しきりに、日本にまた行きたいと話していました。そのとき空港で迎えの車を待つ間、彼女が言うには、
――見かけませんでした? あの誰って言いましたっけ、背の高い女の人と男の人。
そのときはわからずじまいでしたが、その後、日本でテレビを見ていて、それが明石家さんまと和田アキコであることが判明した。彼らは申し合わせて同じ飛行機に乗ったわけではなく、たまたま前後の席に乗り合わせたらしい。そんなことを番組で面白おかしく話していました。
オーストラリアは最も標準的なルートを辿りました。ブリスベンの動物園で子供たちはコアラを抱き、カンガルーを見る。コアラは夜行性動物。大人しいように見えても、ときどき爪を逆立てることもあるので注意してと言われました。
ブリスベンで市内見物して、バンに乗ってゴールドコーストヘ。そのとき初めて携帯電話なるものを見ました。20年以上前のことです。やたらデッカい携帯電話で、彼女はそれを耳にしてなにやら連絡をしていました。
季節の反転する南半球のリゾート地・ゴールドコーストで南国気分を堪能して、ケアンズからシドニーへ。シドニーでは、シドニーブリッジやオペラハウスなどを見物して、その後は自由行動。その時のオーストラリア旅行はフリータイムが大半で、だから愉しかった。歩きながら、電車に乗りながら、舟に乗りながら、水族館や観光地をめぐり、ショッピングをして愉しみました。

夢から醒めて見た夢は、夢から夢の旅立ち。オーストラリアから帰って、もう一度行きたいとの思いは募り、4ヶ月後のGWには再び機上の人に。それでも同じコースでは余りにも芸がなさすぎる、と一般コースの東周りを外してオーストラリアの西海岸へ。パースからエアーズロックへ旅立ちました。
さて旅の智恵を――。
オーストラリアはビールが安い。と言うより日本が高すぎる。360cc缶で100円ほど。種類は4種類ほどしかないが、とにかく安い。日本の発泡酒ほどの値段と思えばいい。それよりもワインがお勧め。リーズナブルで、おいしいワインがたくさんある。ワイナリーを訪ねてもよい。ガイドさんに勧められて空港内の免税店で土産用に2ℓの箱詰め赤ワインを買った。値段は1000円ほどなのに、これが旨い!!
オーストラリアで是非利用したいのが「BYO」。これは、Bring your own の略でレストランに「BYO」の表示があれば、酒屋から買ったワインなどを持ち込んで呑んでも割増料金は不要。なかなか便利で利用しました。もっともお酒を飲む人だけに通用する話ですけどね・・・。
それでは。
2018.2.1